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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2008年11月25日

マザー・テレサの話

    「マザー テレサのお話」 2008年11月25日
        (お話は優香先生でした)
★ エディというインドの子がいました。かわいそうに、まだ小さいのに乞食です。両親は死んで、親戚にも誰も引き取ってくれる人がいなかったので、ごみの中から「何か食べるものはないかなあ」と毎日探していまう。犬から「しっ、しっ、ボクのエサをとらないで」と、噛み付かれたこともあります。ブタのエサばこに首をつっこんでいて、ブタに「あっちへ行け」と押し倒されたこともあります。あるお金持ちの家の中では楽しそうな宴会が・・いい匂いや歌や踊りでわいわいやってる門の外で、エディはもう死にそう、とうとう倒れてしまいました。
★ どのくらい時間がたったでしょう、ふと気がついてみると、肩を優しく叩く人がいます。「さあ、私の家においで。まずこのスープを飲んで・・」。エディが見ると、大きな優しい目をしたおばあさんが、「ニコッ」と笑いかけています。「あつ、お母さん」とエディは叫んでいました。優しかった彼のお母さんのよう、いやそれ以上に優しい顔でした。その姿をじっとみているだけで、エディはとってもまぶしく、おなかがすいていることを忘れていました。もう天国にいったような気分。信じられず顔をつねってみましたが、夢ではありません。うれしいな、こんなに幸せな気持ちになったことはありません。エディは小さいころ、お母さんから抱っこしてもらった時のことを思い出していました。うれしくてうれしくて、心の空は晴れ渡り、なんだかこのまま死んでもいいような気持ちになったのです。
★ その人がマザー・テレサ。マザーとはみんなの「お母さん」という意味です。イエス様のお弟子さんです。マザーのお家に行ってみて驚きました。沢山のおなかをすかせて死にそうになっている人がむしろの上に寝かされているんです。そしてインドの各地からマザーのお手伝いをする人々がきて、みんなのお世話をしている。よくみると、そのどの顔も、マザーのように、イエス様のように光輝いているのです。もっと驚くことは、みんな死にそうなのに、寝かされてひとり一人がまた嬉しそうで輝いている、もう次の瞬間には死んでいくかもしれないのに、「マザー、イエス様、ありがとう。生まれてきて本当によかった」・・・、もう声は出ないけれど、そう言っているようなのです。ああすごい、ここは死の家ではない、命と光のお家なんだ、とエディは思いました。やがて彼もそこで
働く人になりました。
 このお話のあと、裕子先生がマザーの写真を見せてくれました。



★ フットパス 聖 与える 吼える 歩く心地 雄大さ地平線 牛乳
  財務長官 宗教 イエス 

  


Posted by 矢沢牧師 at 20:42

2008年11月07日

人は死後、ヤゴがトンボになる

        人は死んだらどうなるのか?
さる11月2日行われた富塚優子さんの葬儀で、御主人の以下のような文が紹介され参会者の心を動かしました。

亡くなったのではない お先に行ったのだ
                             富塚 喜吉
私の書架の一隅に『自然の教え』という昭和5年刊の古ぼけた小さな本がのっかっています。それは5つの章からなり、自然の営みを通して神の御摂理と御恩寵を説いたものです。
筆者はアルフレッド・ガッティ夫人。標題の章節は森の中の、とある池の中に住むトンボの幼虫ヤゴ達の世界を描いています。つまり現世に生きる私達人間をヤゴになぞらえてあるのです。以下その一部分を抄記してみましょう。
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「あの蛙はここから這い上がって見えなくなるが、何処へ行くのだろうネ。影も形も見えなくなったかと思うと、思いもよらない時に、すっとやって来るんだもの。いったい何処へ行っちゃうだろうネ。君、知らない?」と、一匹のヤゴは友達のヤゴに聞きました。「そんなこと、どうだって、いいじゃないか」と、ちょっぴり、いや、大いに気になるくせに、友達のヤゴはやりかえすのです。
・・・・・・・そんな、ある日、ヤゴは重大決心をして、その日も「ヌウッ」と目の前に現われた蛙に、いろいろと聞きただすのでした。しかし蛙とヤゴの話は当然ながら一向に噛み合わないのですが、ヤゴの熱意にほだされた蛙は、池の中とは違う、水面より上の別の世界に連れて行くことを約束しました。
次の日、ヤゴは蛙の背中にしっかりつかまって、あこがれの未知の世界を目指しました。だが水面に蛙が到達した時、ヤゴは激しい生理的なショックに襲われ、無惨にも水中に取り残されていました。
しかし、このヤゴにも、やがて成虫(トンボ)になる日がやって参りました。ヤゴはおさえようにもおさえることのできない、ある不思議な力に導かれて、池のふちの草の茎を伝って水の世界から空気の世界に這い上がって行ったのです。友達のヤゴ達が別れを惜しんで水面ギリギリまで見送りについて来ていました。しかし彼等の目にはそれ以後のことは見極めることはできなかったのです。この旅立ちは、やがて、ほかのヤゴ達にもあやまたずにやって来るのですけれど・・・。
新生の喜びに満ちあふれ、翅を輝やかせながら飛交う姿を、ヤゴ達はその目で見ることは出来ないのです。しかし、トンボ達の住む世界は疑いもなく確実に存在しているのです。
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私が死とは一体、何ンなんだろう、と真剣に考える様になったのは、旧制中学の一年生の秋、世界中で一番大好きな祖母が死んでからのことです。その時、少年の胸に投影したかげりは、その後の私の心に拭いがたい痕跡として尾をひきましたが、丁度、その頃、私は母を通して著名なキリスト教伝道者御牧碩太郎先生からこの本をいただいたのです。少年時代、母は苦しい家計の中から、ずいぶんと、いろいろな本を買い与えてくれたように記憶していますが、その頃の本は何一つありません。ですが不思議にも、この本だけは手許に残っていてくれました。
遠い稚い日に読んだガッティ夫人の「自然の教え」が少年の私を充分に納得させたように、今でも私に強い説得力を以て迫って来るのです。
(『荘内教会創立90年記念誌』 1
  


Posted by 矢沢牧師 at 15:17