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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2009年04月10日

イースター メッセージ

   今年の復活祭礼拝は 4月12日(日)10時からです
愛の神は子らを滅ぼさず 
 ―キリストの復活祭に当たってー 
                     矢澤 俊彦
★ 人私達間は死んだらどうなるのでしょう?そんなこと考えたって仕方ない、と
いう人がいます。つらいから何かでまぎらわして、考えないようにしている、という人もいます。宗教家ですらその誠実さを装うように、まだ自分は先に行ったことはないし、帰ってきた人もいないので、分からないなどど公言する人もいます。頼りないと思いませんか?それに答えることこそ、宗教の存在理由の大きな柱だと思われるからです。
  人は死んだら「ふるさとの山に帰る」のだ、とは広く信じられてきた信仰です。
月山のような大きな山のふところに抱かれて眠るというのです。また「草葉の陰」から私達をひそかに見守る、とも言われます。どうも寂しくジメジメしているよういに感じるのは私の偏見もあるでしょう。
また最近は「風」になって私達の周囲を吹き渡る、という歌が共感を集めています。あの歌詞で私がいいと思うのは、愛する人がお墓なんかに眠ってはいない、というメッセージです。メロディも美しくうっとりさせられ、ある種の慰めが感じられますが、風などの自然と化すというのは、半端もいいところ、あのムードにだまされてはいけません。
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★ 確かに死というものは大問題です。皆さんは、あのイスラム教徒が毎日5回も
決められた時に、一定のやり方によって礼拝を捧げている姿をテレビなどで御覧になっているでしょう。あれは何のためかといえば、ああしてアラーの神様との約束を守って「天国」に入りたいからなのです。禅の修業僧の厳しい座禅も私達には親しいのですが、イスラムの場合は、あれだけの民衆が・・・王様も乞食も一つになtって日々懸命に行じていることに、彼らのすさまじいほどの「天国への憧れ」のようなものを感じるのです。
★ 私達が死んだららどうなるのか、これは確かに私達の最大の問題でしょう。こ
の問題を避けて、目先のことに追われる愚かさをじっくり考えてみましょう。
★ 人生は実に短くはかないもの、たとえ生きてる時に何があろうと、それがどん
なに栄光に輝いたものであっても、たちまち霧のように消えてゆく。勢いある青草も、幾日もたたないうちにしぼんで枯れる。たとえ全世界を所有し得たとしても、明日の命の保障がないとすれば、そのための営々たる努力も空しいものではないのか。こんな空しさに囲まれていながら、どうして日々を希望を持って雄々しく歩むことが出来るでしょうか?「さあ大いに飲み食いして楽しもうではないか。どうせ明日のことも分からないんだから」と聖書にもあります。こういうことのことの重さをとくと考えなくてはならない、と思うのです。
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★ それでは、人は死んだらどうなるのでしょう。端的に言いましょう。それはキリストのようによみがえって、神様のもとでの生活を楽しむのです。私達のこの肉体は滅び失せ、煙となり土と化しますが、その後、造物主なる神様から新しい体と心を与えられます。そしてお互いが分かり合う、この地上のそれぞれの個性や性格や苦労や頑張り、また無念や悲しみの思いなど、すべてが生かされ清められた形での新たな人間・・・というより天使的人間へと新たにされる。これが復活祭の喜びなのです。生き返ったキリストの手には、打たれたくぎの跡まであった、といわれるのです。
★ そんなお伽噺のようなことを信じているのか、とあきれる人もいるかもしれません。でも、これだけのことを大真面目で大の大人たちが信じ、人にも伝えていこうとしているのが世界のキリスト教徒なのです。
★ 次のことを考えてみてください。人間の親というものは、心を尽くし力いっぱい我が子を大事にし、その一人ひとりをはぐくみ育てるものです。小さなケガや事故や病気にも、とても注意深くします。また子供のすべての動作がなんともかわいく、話もこんなに出来るようになった、ブランコにも乗れるようになった、などと大喜びするのが親というものです。
★ ところで私達を造られた神様は、天地の大親です。その愛で世界を造られ、その愛を分かち合おうとして人間をも造られたのです。その最高の親である神様が、かわいくて仕方がない人間を、幾ら人間が悪くても、半端で放置したり、滅びるにまかせたりするはずがないではありませんか。
★ たとえ子である私達がどんな大罪を犯して、どこかへ逃げてしまったとしても、それを赦し、見つけるまで探そうとする、傷だらけの我が子の状態を知りながら放っておくはずはありません。もし周囲に迷惑をかけたのなら、どんなに苦しくても、自分が「身代わり」になって、それを償おうとするでしょう。これこそキリストの十字架の意味することです。このことを知ったなら、私達はどんな感謝と懺悔の思いで、キリストを礼拝することでしょう。
・・★ 愛はすべてに勝利します。この力ある愛の支配を前提にしない限り、この世の生活も成り立たない。死と滅びという暴君が支配しているんでは、まともに生きてはいけません。キリストは死に勝ち、よみがえった。私達も死と墓を押しのけて復活するのです。作り話のようにも聞こえる「復活祭」こそ、人間らしい人生と、まことの「希望」ある生き方の大前提なのです。
  


Posted by 矢沢牧師 at 18:07

2009年04月10日

イースター 御案内とメッセージ

  今年の復活祭礼拝は4月12日(日)10時からです

     花の命は永遠の生命を覗く窓
       ―イースターの大きな喜びー
                              矢沢 俊彦
★ 今年の復活祭は4月12日の日曜日で、キリスト教の浸透した国
では1週間前後も祝日となる大きなお祭りです。これはイエス・キリストが墓からよみがえって死に打ち勝ち、私達にも死後の豊かな生命を保証してくれるという、本当にこれ以上の喜びは地上にはない、と言えるような・・・この世に生きる感謝も感激もここに窮まる、という大祭なのです。
★ おりしも梅が咲き、桜も咲き始め、山も野原も色とりどりの花々で春爛漫。私達を優しく包んでくれます。素晴らしき時節の到来です。
しかしその色香に酔い、うっとりしているだけなら、四季の移ろい、この世の移ろいに流されていくだけになります。いわゆる酔生夢死の人生になりましょう。花の美しさもひとときだけ。そのように人の命もはかなさを免れることはできません。
★ しかし復活祭が見据えるのは、花の美しさの奥にある永遠の美、その命の
躍動の奥の永遠の命です。満開の桜をめでながら、過ぎ去り行くことのない永遠の春を感得するのです。
  「幼児画は子供の心を覗(のぞ)く窓」という言葉があります。意味は明瞭でしょう。そのように、この世の生命や美の一切は、それを通してその贈り主である神(造物主)を想い、やがて与えられる永遠の生命に想いをはせる「窓」なのです。過ぎ去り行くものすべては、決して滅びない大いなる命のシンボルなのです。これを見てあげなくては、すべてに申し訳がたたないのではありませんか?
★ キリストは言われました。「きょう生えていて明日は炉に投げ入れ
られる野の草でさえ、神はかくも美しく装ってくださる。まして汝ら人間をや。だから明日のことを思い煩うな」、と。。
★ 親の子への愛情は深いものです。この世界も人間も偶然に存在す
るのでなく、産みの親・養い親がいる。そうならはかないと見える人の命も、決してこの世で終わるものでない。我が子を滅ぼす親はいません。必ずや、完全なもの、永遠なるものとして仕上げてくださるに違いありません。
イースターはそんなことを思い巡らす日々なのですね。
(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団ッ荘内教会牧師)
     花の命は永遠の生命を覗く窓
       ―イースターの大きな喜びー
                              矢沢 俊彦
★ 今年の復活祭は4月12日の日曜日で、キリスト教の浸透した国
では1週間前後も祝日となる大きなお祭りです。これはイエス・キリストが墓からよみがえって死に打ち勝ち、私達にも死後の豊かな生命を保証してくれるという、本当にこれ以上の喜びは地上にはない、と言えるような・・・この世に生きる感謝も感激もここに窮まる、という大祭なのです。
★ おりしも梅が咲き、桜も咲き始め、山も野原も色とりどりの花々で春爛漫。私達を優しく包んでくれます。素晴らしき時節の到来です。
しかしその色香に酔い、うっとりしているだけなら、四季の移ろい、この世の移ろいに流されていくだけになります。いわゆる酔生夢死の人生になりましょう。花の美しさもひとときだけ。そのように人の命もはかなさを免れることはできません。
★ しかし復活祭が見据えるのは、花の美しさの奥にある永遠の美、その命の
躍動の奥の永遠の命です。満開の桜をめでながら、過ぎ去り行くことのない永遠の春を感得するのです。
  「幼児画は子供の心を覗(のぞ)く窓」という言葉があります。意味は明瞭でしょう。そのように、この世の生命や美の一切は、それを通してその贈り主である神(造物主)を想い、やがて与えられる永遠の生命に想いをはせる「窓」なのです。過ぎ去り行くものすべては、決して滅びない大いなる命のシンボルなのです。これを見てあげなくては、すべてに申し訳がたたないのではありませんか?
★ キリストは言われました。「きょう生えていて明日は炉に投げ入れ
られる野の草でさえ、神はかくも美しく装ってくださる。まして汝ら人間をや。だから明日のことを思い煩うな」、と。。
★ 親の子への愛情は深いものです。この世界も人間も偶然に存在す
るのでなく、産みの親・養い親がいる。そうならはかないと見える人の命も、決してこの世で終わるものでない。我が子を滅ぼす親はいません。必ずや、完全なもの、永遠なるものとして仕上げてくださるに違いありません。
イースターはそんなことを思い巡らす日々なのですね。
(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団ッ荘内教会牧師)
       


Posted by 矢沢牧師 at 17:58