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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2009年07月21日

五臓六腑をうちふるわせる主イエス

    子よ、あなたが欠けてはこの世界は完成しない」
    五臓六腑を打ち震わせて呼びかけるイエス
        (2009年7月19日 荘内教会日曜説教)
                                  矢沢 俊彦
イエスはすべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音をのべ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。また群集が飼うもののない羊のように弱り果てて倒れているのを御覧になって、彼らを深くあわれまれた。 
マタイ福音書第9章35,6節

なんとも心細い自分に気づく
★ 昨日から今朝にかけての激しい風雨に、私はこの世界を統御する天父
(てんぷ)の大いなる生命力の強さを感じました。神様が今も決して休むことなく、激しく働いておられることを想うのです。
★ しかしまた、こんな風雨吹きすさぶときには、逆に自分の命のおぼつかなさ、たよ
りなさ、移ろいやすさやわびしさが痛切に想われるかもしれません。何かにまた誰かに守られていたかに想っていた自分自身が、気がついてみると、実はとっても一人ぼっちで、この広い世界に投げ出され、捨て置かれている・・・・そういう姿が見えてきて、「誰か来て」と叫び出したくなるかもしれない・・・・そういう中で、親しき友が一人、また一人とこの世を去っていく。あるいは先週も毎日のように伝えられた想わぬ事故や災害の多発を想い合わせると、この世には大きな死と滅びの河が濁流のように暴れまくっているように感じられてきます。うっかりすると、私達もその流れに、いとも簡単に呑まれてしまう怖さが迫ってくるのです。
                最高の名医があなたの家に
★ そういう中で聖書を開きますと・・・・そこに大変明るい安心の世界が開
けているんです。即ち、そこには天からの勢いある生命の大河が、満々と清冽な水をたたえて流れ込んできているのです!この河に身を投じるなら、心細かった私達の境涯(きょうがい)は一変するのです。
★ 本日のテキスト、マタイ福音書9章35節には、「イエスはすべての町々村々を巡
り歩いて」とあるのにびっくりしませんか?イエス様は実に世界最高の名医であり知恵者であり、救い主とさえ言われる人です。そういう人には、普通こちらの方から手間ヒマをかけ遠路を訪ねていくものです。経費もネルギーもかけます。本当の名医や学者が必要なら、そうするでありましょう。でもここでは全く逆。最も偉大な力を持った人物が、私達一人ひとりをもれなく訪ねて来られるという、「町々村々を巡って」とはそういうことです。これはなんと驚くべきこと、またありがたいことでしょうか。

               すべての力を他人のために
★ もう一つ気づかされるのは、イエス様のエネルギーが完全に外部に向かって放
出されていたことです。私達はたいてい逆で、力が内部にこもり、また葛藤して内側で消費されてしまい、ついうずくまってしまいます。周囲に出ていっても、それはとかく自分の安心や保護また利益のためなのです
でもイエス様は、神様から頂いた生命力をすべて他者のために用いている。利他も精神の権化(ごんげ)です。でもこうした生き方こそ最も生きがい感があり、前進の力になる。悩んでいる者、悲しんでいる者、また泣いている者はいないか、といつも探し求めるエネルギーとなっていくんです。イエス様のまわりには、いわば大いなる生命の河が流れているといっていい。天の神様の王座から流れだしている永遠の生命の大川が激しく押寄せてきているのです。
              幼児に保護者がいるように
★ そうして会堂で教え、「御国の福音」を伝えた、という。この福音とは何か?それ
は我らに「天の父います」ということです。この世は悪の力がのさばっているかのようだけれど、決してめちゃくちゃでも無秩序でもない。私達が自分の子らに全力を注いで育てているように、天のお父様はそのようにしていてくださる。幼な子が保護者なしではわずかの時でも生きられないように、私たちも天の父を切実に必要としている。このことを教え伝えられたのです。

                 絶望こそ死に至る病
★ そして人々の「あらゆる病気やわずらい」をいやされたという。今もイエス様はそ
のような力を発動しておられる。これを信じることができるでしょうか。
病気には実にさまざまありますが、難病業病(ごうびょう)といわれるものの根底
にあるものは何でしょうか?それがいやされなくては立ち上がれない、その病をして死に至らせてしまうものは何でしょうか?
★ それは「内なる絶望」です。もうオレはダメだ、直らない。神様もお見捨てになっ
たのだ。もうなんの希望もない。世間にも全く役立たず、お荷物で厄介(やっかい)者に過ぎない・・・こういう思いがある限り、どんなに手を尽くしても、その人は直らないのです。イエス様が果敢に取り組まれたのは、この頑強なる絶望です。
               あなたは大事な人です
★ 主は言われました。「あなたの病気は死に至らず、あなたは健康な生命へとよ
みがえるのだ。呪われているなんてとんでもない!あなたは神様にとって実にかけがえのない大事な人。あなたが欠けては、この世界は立ち行かないのです。我が子よ、お前の病気や苦しみは父がつぶさに覚えている。その悩みを用いて、父はみ業を行おうとしておられる。そのことで父は栄光を増し加えられるのです。あなたは天父の逸材(いつざい)、子よ、父のいつくしみ深いお顔が、ほら、見えるじゃありませんか・・・」。こうしてイエス様はいつまでも語り続けられるのです。
                はらわたすべてを動かして
★ 今も病院に行くと病んだ人々でいっぱいです。そしてそれだけでなく、イエス様が
見ると、「群集が飼う者のいない羊のように、弱り果てて倒れていた」というのです。いつぞやモンゴルに寒波が襲って、たくさんの動物たちが野原に倒れている光景の無残さに目を奪われたことがあります。イエス様の心眼(しんがん)でこの世界を御覧になると、群集がそう見えるのです。羊飼いを失って、生きるすべなく、赤膚を露出して息も絶え絶えである。しかも誰も助け起こす人はいない、これは現代の光景でもあります。
★  その痛々しい姿を見て、イエス様はどうされたでしょう。「深くあわれまれた」と
あります。「あわれまれた」とは浅く受け取られがちですが、無限に深い内容があります。その原語には「スプランクナ」という言葉が用いられていて、これは内臓や五臓六腑を動かすことを意味します。即ち、イエス様は倒れている人々を見て、そのはらわたなど、内部のすべてを揺り動かして、持てる力愛情のすべてを注ぎ込んだという。あわれむとは、そういう強烈なことばです。イエス様の感性の本質とは、そういうものなのです。イエス様のような感性を持った人が、今求められているのではないでしょうか。イエス様には遠く及ばないとしても。
                   働く人になりなさい
★ それゆえイエス様はさらに弟子たちにいわれました。働く人が少ないと。倒れて
いる人は無数にいるけれど、人々を助けいやす人々はほんの一握りじゃないか。さあ、この苦しむ世界のいやしのために働く人が送り出されるよう祈りなさい、と。
荘内教会では  
 滅びと死に至る濁流が確かに流れています。でも、それ以上にはるかに勢いがあるのは、天国から流れてくる命の大河です。まことの羊飼いイエス様が、あなたの心のとびらをたたいています。

・ ・・・・・
・ なお、荘内教会では働き人を求めています。何かお手伝いしてみたい方は、お申し出ください。
  


Posted by 矢沢牧師 at 18:22

2009年07月21日

保育園礼拝 人生の一大事はたった一つ

          人生の一大事はたったひとつ     2009年7月21日
             (月曜礼拝 カード 16  お話 宏子先生)
★  相変わらず「多忙」の時代です。やることもいっぱい、気を使う相手も、聞くべ
き情報もあふれるほどあります。その中で静かに人生を考えたり、日曜日に教会にくるなんていう余裕はなかなか持てそうもありません。今日の宏子先生のお話は、そんな人々のために、イエス様が話されたものです。
★ ある村にマルタ・マリアの姉妹が住んでいました。ある日、イエス様のお弟子さん
が走ってきていいました。「今日お昼ごろイエス様がここでお話したい、といってますので、いいですね」と。マルタさんたちはイエス様のとこはよく知っているので「いいですとも」と喜んで返事をしました。
★ でもそれからが大変でした。マルタさんは早速大掃除から買い物、お料理のこと
など、やること考えることが沢山あって大忙し。もちろん妹のマリアさんもお手伝いしましたが、なんだか心が興奮してお手伝いは上(うわ)の空みたいです。
★ たちまち時間が過ぎ、イエス様がお弟子さんたちを連れてやってきて、さっそくお
話が始まりました。すると、妹のマリアさんはお弟子さんと一緒にすわってお話を一生懸命聴いています。どんな顔だったと思う?とっても嬉しくて夢を見るような気持ちでうっとりとなっていました。ウン、ウンと大きくうなずいているのがよく見えます。
★ それを台所でチラッと見た姉さんのマルタさんは、頭に血がのぼりました。・・・・自
分はこんなにてんてこまいで、みんなの接待のことで必死なのに、あの妹ときたら・・・よーし、もうがまんできやしない、イエス様に言いつけてやろう・・・・。そこで急いでイエス様の近くでこう言ったのです。「今わたしはとても忙しいんです。マリアに言ってください。すぐ台所に来るように」と。

★ さあ、イエス様はなんと言われたと思いますか?イエス様はとても優しくマルタさ
んに言いまし「わたしたちがきたことで迷惑をかけてるね。すまなく思います。あなたの懸命な気持ちは、もうとってもよく分かりますよ。でもよーく考えてみてください。たくさんのことであなたの心は乱れてます。騒がしい海の波のようです。でもね、本当に大事なことは、心をおだやかにすることじゃないですか。神様の言葉で波をしずめることです。マリアの顔を見てください。幸せそうでしょう。さあ、仕事はあとにして、あなたもここにきてください」。た。
★ その優しいことばを聴いて、マルタさんの目には涙があふれ出てきました。そのと
き、妹のマリアが走っていっていいました。「姉さん、ごめんなさい。姉さんの気持も知らないで・・・」。それを見て、イエス様は「きょうはここへ来てよかった、よかった」と、本当にうれしそうでした。
  


Posted by 矢沢牧師 at 18:02

2009年07月21日

お年寄と幼児の麗しい交流

             お年寄りと幼な子との麗しき交流 
―                 年長組の老人ホーム思恩園訪問記 ―
                 荘内教会保育園 園長 矢沢 俊彦

                不思議に通い合う両者
   この花のように 美しい心を 
神様ください 小さなわたしにも     (こどもさんびか)
★ お年寄りと幼児。この両者は不思議に心が通い合う。住んでいる世界がまるで一つのようなのです。息も呼吸もぴったり合った約1時間半、互いに笑いころげ、歌い、拍手をし合って、素晴らしい時間をつくりあげたのです。
★ それはさる6月11日のこと。当日は「花の日」。美しい「花」という造物主か
らの贈り物をよく味わうとともに、それを老人や病人などと分かち合い、励まし合おうというキリスト教の行事なのです。この日、当園の年長組16名の子らは、湯の浜にある老人ホーム思恩園を訪ねました。以下にそこで展開された実に麗しい光景を御紹介いたしましょう。
              花束を手に手にして
★ その朝、子供らはみな手に手に色とりどりの花束を大事そうに持って登園
「どうしたの」と聞くと、「庭に咲いてた」「ママとお花やさんへ行った。お兄ちゃんも一緒だった」「ばっちゃんがくれたんだよ」・・など、はずむ声が返ってきます。中には私の鼻にその束を押し付けて「いいにおいでしょ」・・。その後、30分ほどの湯の浜行きのバスの中でも、みな自分の宝をしっかり握りしめたままです。一人一人の子らの胸の中が伝わってきます。これと、何日か練習してきた「出し物」で、おじいちゃん、おばあちゃんたちと楽しく過ごそう、と懸命なのです。みなワイワイ楽しそうな表情のうちにも、キリッとしたものを感じさせます。
             大拍手で迎えられたお年寄り
★ バスを降りると雨です。道路に水たまりができて、たちまち小さな靴の中はびしょびしょ。でもそんなことは気にも留めないで思恩園へ大急ぎです。
 会場には子供たちが先に着きました。去年は多くのお年寄りがもう待っていてくれて、みんなを拍手で迎えてくれた。でも今年は逆になりました。入場してくるお一人一人を力いっぱい手をうって迎える幼子たち。お年寄りがちょっぴり気恥ずかしそう・・・。でもみなにこやかに「おはよう」・・・・私はもう最初からなんだか胸が熱くなってきました。
              この時代に稀れな?感激
★ ここにやってきた趣旨を大きな声で告げながら、持参の束をやっと手渡し
できてほっとする彼らのさわやかな顔・・顔。受け取った側の思いももうお分かりでしょう。今の日本では?数少ない感激の瞬間でした。
 多分このお年寄りの多くは、身近かな子や孫に恵まれない。また身寄りがない人も多いことでしょう。それだけにこの贈り物にひとしお深く感じ取るものがあったに違いありません。涙ぐんでいる方も何人か見受けられました。
★ はじめの歌「手のひらに太陽を」を歌い出すと・・・・不思議です。多くのお
年寄りたちもそれに唱和して歌い始めたのです。そういえば、いつかこの歌を演奏していたことを思い出しました。でも一方が歌い出すと、すかさずそれにすぐ応じる・・・・この心の動きって素晴らしい、と思いました。それから両者は接近しての「こちょこちょ遊び」では、まさに和気藹々(あいあい)。
              声援に互いに得意満面
★ そのあとは両者対抗の輪投げです。どちらの一投にも声援と大拍手。ただ
子らの多くは、この本格的なものは初体験。他方老人組には大会の備え準備中の「選手」が何人か。遠くから、いろんな場所のくぎにピタッと小気味よく決めます。老人は得意げな表情。子らはびっくりしながら「がんばれ、ガンバレ」。よーし、と負けじと続くのです。どちらも、こうして見ていてくれる相手がいることで、いっそう張り切るものなのですね。
              見えずとも「柔」を熱唱した
★ 出席者のうちには車椅子組も3、4名。90歳の方も紹介されました。私
の目にとまったのは白い杖を手にしたAさんでした。このおばあさんは白内障が悪くなって右目は見えず、左も視力わずか0.003だという。でもとても覇気があり、口調もしっかりしている。そこで1曲何か・・・と誘うと、少し考えて、それじゃあ、といって、美空ひばりの「柔(やわら)」を素晴らしい声で熱唱、これがこの日の交流会をしめくくる盛り上がりとなったのです。こんなハンディを色々抱えたみなさんが、それにめげず明るく生き抜いている姿も感動的でした。
               花は文句をいわず天命に
★ そういうお年寄りと子供たちを前にした「花の日」の私のメッセージの一
部。この世でおそらく最も美しいと思われる「花」という被造物。もし花がこの世界から消えてしまったら、どういうことになるでしょうか?・・・・さて、この花のきれいな理由、そして最高にエライのは・・・・・誰にも文句を言わないこと。色も形も大きさもにおいも・・・神様が下さったもので満足している。偉大なる沈黙のうちに服従していることです。みなさんも、足が痛い、目も悪い、すっかり弱くなって・・・など沢山文句を言いたいかもしれません。でも神様にはお考えがあるのです。お花を見つめつつ、考えてみましょう(鶴岡市本町3―5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)。

  


Posted by 矢沢牧師 at 17:57

2009年07月21日

天国を激しく襲え -お盆にー

          天国を激しく襲え   =この時節に思う=
         「拉致状態」に似た人類からの脱出を
                                     矢澤 俊彦
友を送る深きさびしさ
★ 「嵐吹く騒がしき世に 日々友は滅び行く」という讃美歌の一節があります。
「滅び行く」とは決して言いたくありませんが、さまざまな仕方で、多くの友がこの世を去っていく、これはもう大変なものです。ほんの1週間を過ごすだけで、私達はどんなに多くの別れを告げねばならないことでしょう。そのほとんどが実に悲しい。特に年若き者や思いがけない事故や病気で逝く人々には、送る言葉すら浮かばない。そのたびに自分の命も削られていく思いです。まるでこの世に大きな洪水が起こっていて、私達はよほど注意しないと、その巨大な流れに流され、どこかに連れ去られていってしまう、そんな恐ろしさを感じます。

                 保育園脇の古き墓地
★ 先日温海地区に散在する保育園を訪ねたとき、園児たちが日々出入りする道
のすぐ脇に、あるいは遊び場の隣に、大きな墓地が広がっている光景に、何箇所も出くわし、「はっ」とし、深い感慨に引き入れられました。そうか、そうなんだ、両者の距離のつかの間であることを悟らされたのです。西欧の修道僧の日頃の挨拶として有名なものに、「メメント・モリ」というのがあります。これは、「汝は死ぬべき存在であることを覚えよ」という意味です。私は温海でそのことを実感させられました。

                酔生夢死に導く魔法使いが?
★ 「酔生夢死」の人生に陥りがちな私どもです。先に逝った無数の人々が、メメン
ト・モリを一大合唱している、あの人もこの人も、最後に遺してくれたメッセージの一つはこのことだったというのに。「今日の日が汝の終わりの日と思え」という賢人モンテーニュの言葉もあります。昔から、哲学というものは、「死の演習」である、と言われてきました。
でも凡人である私達の多くは、この世で眠りこけやすい。私どものまわりには実に巧みな魔法使いがいて、私どもをいろんなものに夢中にさせ、酔わせてしまう。素晴らしい季節の移り変わりも、結構あぶない。無論、仕事や恋愛、また子育てなども、時を忘れさせる最たるものでしょう。そして私どもの頭を普段占領しているものは、お金や健康、また食べ物や旅行のことなど・・・・・そしてある日突然気づけば、光陰は矢のように過ぎ去ってしまっているのです。

               現代医学発達の皮肉
★ 最近なくなった有名な精神医学者の土居健郎氏は、現代医学の発達が、人生
の短さを気づきにくくさせている、と洞察しています。いわく正岡子規など、明治の文豪達が早熟だったのは、当時の医療事情も悪く、誰も明日のいのちも保障されない境涯を生きていたからだ、と。
★ どうして私達はこんな状態に低迷しているのでしょうか?それは問題が簡単
でなく、容易には解けないように思われることに加え、私達の存在自体が大きな「不安」にとりまかれているからです。先のことを考えるのが怖いのです。

               眠ってる間に知らない島に
 いわゆる「拉致問題」は未解決の大問題ですが、パスカルという哲学者は、人類というものは、いわば「拉致状態」じゃないか、と一大覚醒を促しています。即ち、私達はみんな眠っている間に、全く知らない島に連れてこられたような存在ではないか。しかもいったいどこから来たのかも分からなくなり、これから先のことも知らないのだから。そうだとすれば、これは何という重大事態でしょうか。それは特定の人だけのことではない。我々みんなに降りかかってきている大きな事件なのです。それなのに、騒いでいる人は、ほとんどいないかのようなのが、実に不思議です!
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                目覚めよ、と呼ぶ声あり」
★ さて、これからが「解決編」です。優れた宗教には、それぞれこの点で十分教
えるところがあると思いますが、キリスト教である私が教えられているところを記してみます。大作曲家バッハのオラトリオに、「目覚めよ、と呼ぶ声あり」という名品があります。何に目覚めるかというと、天地創造の「父なる神の愛」にです。私はいつも思います。この世界を支えている基本は、やはり父母の愛でしょう。親は子供のために命を使い尽くすのです。世界を支配しているのは、この愛の原理なのです。これを疑うなら、もうこの世界は立ちゆかないでしょう。そういう不思議に強い親の思いを授けてくれたのが、「天の父」だという、それに気づかせようとして、バッハは多くの作品を作ったといえるでしょう。

                天地に満ちる天父の愛
★ 天地の創造主は、人間の親がはるかに及ばない大きな愛で私達を包んでい
てくれている。失われた1匹の羊のために、天が総力をあげて探し出すという有名なたとえがあります。だからもう大いなる安心のうちに生きていいのです。ですから人間は死んだら、毛虫が蝶のように、やごがトンボのようになる、といってもいいのです。天空を自由に飛び交うトンボは、水の中の苦しかったときのことっを、どう感じていることでしょう。
★ 確かにこの世はつらく苦しいものです。まさに漱石も聖書を借りて言った「ストレ
イ・シープ(迷える羊)です。ちょっと先も見えず、体中傷だらけ、息も絶え絶え。でもそういう私達を抱きあげ介抱し、いやし、生命を吹き込んでくれる方がいる。その人こそ、天父の愛のメッセンジャーであるメシア(キリスト)なのです。

              「死人の中から立ち上がれ」
★ このことに気づくには世の流れにのまれていてはいけません。はっとして
敢然として起き上がり、立ち上がらねばなりません。「死人の中より立ち上がれ」と聖書にあります。
また「天国を激しく襲え」ともあります。私はかつての米国のゴールド・ラッシュの大騒ぎを思い起こしました。でも天国には宝は無尽蔵です。人を押しのけて進む必要はありません。でも急ぐ必要があるのは、初めに述べた人生の事情があるからです。
そうすれば、やがて「1日は千年のようである」との祝福された境涯が開けてくるでありましょう(鶴岡市)本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)。


  


Posted by 矢沢牧師 at 17:44