スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2009年09月29日

立ち止まって考えてみた

最近聞いたて心に残った言葉から
 (最近、NHKラジオや身近かあなところで聞いたことばを、わたしなりに整理したもの。もとの発言どおりではありませんので、ご了承ください)      矢澤 俊彦

★ 「情緒の疲労」というものがある。一喜一憂
のようなものを累積させていくことか。すると万事に?ヤル気がなくなり、動作が機械的となり、その人の顔から表情が乏しくなる。これは自己表現における「省エネ」であろう(山形でのメンタルヘルス講習会で)。

★ 私は女優になったとき、自分の幸せは捨て
ました・・・・人間はひとり、どこまで行ってもひとりです。でも、元気で誠実に一生懸命生きていけば、きっといいことあるわよ(森 光子、放浪記)

★ ラジオ・ビタミン・・・NHK心の午前の番組のタイトル。なかなかいい。私達には精神的栄養剤が必要だということ。それも一服あれば、1日生きていけるということか。でも興味のない多量の情報を詰め込まれる学生や長わずらいの人々には、もっと強力な注射が必要。福音はこの上なく強い覚醒剤なのです(矢澤俊彦)

★ 神様は永遠の昔に、人間の幸せの実現を
決断された(神学者バルト)。それから天地創造があった。この決断は重いもの。これなくして我々は、善悪の交錯するこの歴史というものに耐えられるものではない(並木浩一氏の電話から)

★ 考えるとは、新しいものを打ち出すこと。人
まねはダメです。・・・・自分の眼があなたにはない!よけいなものばかりであなたの中はいっぱいです。・・・・生き残った者は何倍も働く責任があります(ドラマ 白洲次郎より。       (Y)

★ このごろもとおりの子供が変りましたね。歌おうって声をかけると、みんな舞台に
あがってきます。でもお母さんたちは、子供たちにあまり歌ってあげませんね。歌いたいものは別にあるみたいです。・・・・・・作曲家は歌を出すだけでなく、これはこう歌ってほしいんだ、ということを、できるだけ直(じか)に人々に伝えるべきだ、と思います。・・・・・「さっちゃん」というあの歌、幼い男の子の恋心を歌ったものですが、何千回歌ったかわかりませんが、むづかしいです。わたしには永遠の課題曲です(真理よし子、初代歌のおばさん)

★ 江戸時代の近江商人のことばに「三方良し」というのがあるそうです。我よし、客良し、世間良し」という意味で、この原理は、国際経済にも意義深いと思う。自分の国や地域さえよければ、ということでは、これからは立ち行かないんです・・・・首相のいう「友愛」もYOUとI,即ち、あなたあってのわたし、と考えると、いい言葉だと思います。・・・今回の国際金融ショックは「点からの鉄ィ」、これに聞かなくては・・(経済評論家 浜のり子)。

★ 「煉獄」(れんごく)ということばがあります。天
国と地獄の中間にある世界だ、とカトリック教会が考え出したもの。この世での罪がそこで浄化されて天国入りの備えをするという。うまいことを考えたものと思いますが、聖書はもっとストレートです。この世で本当に悔改める(イエス様のかいなに抱かれる)なら、もういながらにしてここが天国となるのです!(矢澤俊彦)

★ わたしの母は料理やをしており「肝っ玉母さ
ん」、そして「霊媒」をしてました。いろんな人に乗り、その人の声を聞かせてくれました。死後もどこかに魂があることは、それで容易に信じることができるんです(『小倉 けいの世界』)。

★ 世界がこわい・・・ひとがこわいんです・・・・・
次のような題名の歌があります「There is no deppression in heaven ―天国で人は落ち込んだり塞ぎこんだりはしません、不況も(Peter Barakan氏紹介―毎土曜朝)。

★ 私の属する団塊の世代は700万人います。
この人々を送るのは大変・・・・それと・・寺の住職はかつて「十の職」を持っていた。宗教的なことだけでなく、寺小屋といわれた教育的働き、文化センター的役割、また地域つくりや土木設計建築など、広い働きをしていまた(長野県松本市の住職高橋さん)。  


Posted by 矢沢牧師 at 15:46

2009年09月23日

ぽっくり死にたいなんてあまりに低次元です!

                                2009年9月20日
           昇天者追悼礼拝メッセージ (要約)     
                          荘内教会牧師 矢澤俊彦

★ 私達の前に今掲げられているこの大勢の先輩たち。じっと見入ると、そ
の一人一人が遺影から飛び出してきて、神を讃美しながら、私達に呼びかけ、語り、あるいは叫んでおられるような感じがしてきます。今日はそのおびただしい声に、じっくり聴き入る日なのです。

★ まずささげるべきは深甚なる感謝と懺悔。日がたつにつれてこの恩人
たちのことを忘れがちであるとしたら、それこそ「忘恩の罪」に落ちているのです。去る者、日々に疎し、はクリスチャンの道ではありません。
この方々が叫んでいる最大のことは何でしょうか?それはイエス様を受け
入れて、この世の迷妄から救われよ、ということに違いありません。

★ キリストの光を受けるとどうなるのでしょう。心の嵐がピタリとやむ。この
世に生まれてから自分を悩ませてきた欲望や思い煩いや恐怖や不安などのすべてがうそのように静かになってしまう。えっ、こんなことってあるのだろうか・・・あまりの静けさや落ち着きに、自分自身日々驚愕しながら暮らしていけるようになるのです。

★ そうなればしめたもの、私達はこれまで出会ったすべての人々、身の
上に起こった出来事のいっさいに、深く深く感謝するようになる。それらのすべてあればこそ、この新しい自分があるからです。見るもの聞くものが感謝の対象になってきます。人生の目的地についに到達した、との思いは、なんと満ち足りたものでしょうか。そこから改めて、お世話になった人はもちろん、自分をいじめた人や傷つけた人、また袖をふれあっただけの人々にも、しっかりお礼が言いたくなってくる、「あなたのお蔭でここまで来ることができました」と。ここからまことの「追悼」も始まるのです。

★ 遺影の数々を前にして思うのは、死についてです。この死をどこかで恐
れていては、この人生に本当の「希望」という物はありえません。私はそう確信っします。なぜなら私自身、20歳の時、父の死に出会ってから、死神にとりつかれたような長い時期を過ごしてきたからです。それは長い夜で、時に七転八倒させられる苦しいものでした。でもしかし、とうとうその暗い力を舞台から見事に転落させてしまう、強力な味方が現れたのです。それで私の境涯はすっかり一変、心から笑える光と希望の国の住人となったのです。

★ キリスト教は実にてごわいもの。どんなに逃げても、私達は神様の前か
ら逃れられません。半端に生きるなら、真の喜びも安らぎもついに知らないままに、人生は恐ろしい速さで終焉してしまうでしょう。

★ 自分をさまざまに偽装してはいけません。これまでどんない迷い、むな
しい虚偽に満ちた生き方をしてきたか、表面的なつじつま合わせに狂奔しても、結局は破れだらけの人生だったことを正直に認めねばなりますまい。こんなに偽装して世間の目をごまかしてきたとすれば、「なりそこない人間」です。でもそういう我らがもう一度「生まれ直され、乳幼児から育て直される」・・・これが教会というものの最大のありがたさです。

★ この世を去ってからこそ、素晴らしい人生が始まる、と確信します。な
ぜ?それはこの世の親の愛というものを考えれば、容易に分かります。保育園の子らの父母たちも、もうみな懸命に子らを育てています。そうです、親は愛する子らを、どこまでもいつくしみ育くむ。そのわが子がやがて滅んでいく、あるいは死神の手に渡されるのを、手をこまねいて見過ごすはずがない。愛はいっさいの敵に打ち勝つのです。いわゆる「復活」はこのことを示しているのです。

★ その復活の命は、実は今すぐにあなたに授けられるのです。小さなこ
の自我というものを、キリスト様の愛に包んでもらい、それを滅してもらえばいい、そうすれば考えもしなかったような不思議な出来事が起こりましょう。これからはもう小我が生きるのでなく、「キリスト我がうちにありて生くるなり」が事実となっていきます。この多くの遺影からの呼びかけは、そのようなとびきり大きな幸せに生きよ、との大合唱なのです!

                                            


Posted by 矢沢牧師 at 18:05

2009年09月02日

弱肉強食の自然界にも革命が・・

                            2009年8月31日
おおかみは子羊と遊び、
              赤ちゃんはまむしの穴で戯れる世界がくる
              (月曜礼拝カードNO.  お話 園長先生)
★ 大きく深い森。その夜はいろんな動物の鳴き声でにぎやか。その中におおかみ
の声はひときわ気味の悪いものでした。でもおおかみはおなかがすくとがまんできなくなり、群れをつくって野原に行き、羊たちを襲うんです。羊たちはか弱い。それに番をしている羊飼いたちも、おおかみを見るとこわくなり、すたこら逃げ出してしまうので、おおかみたちはらくらくと羊をたいらげることができるのです。

★ さて、ある夕方、やはりおなかのすいたおおかみたちが羊に飛びかかろうとしま
すと、そこに滅法強い羊飼いが現れて、おおかみをみねうちにしました。倒れて気を失ったおおかみが目をこすると、そこに背も高いて羊飼いのおじさんがいて、お話をしています。なんだかやさしい声でうっとりします。「いいね、羊さんだって神様が大事にしている仲間じゃないか。子羊のお母さんも泣いているよ。いやお父さんを殺されたこどもも泣いている。お前さんたちの体はそういうかわいそうな羊たちの肉と血でできている。ひどいもんじゃないかい・・・」。

★ そんなお話を聞いているうちに、おおかみさんの目にも涙が出てきました。俺
達はなんてワルだったんだ。ごめんなさい・・・」。でもそういうおおかみさんたちは、おなかのすいたことも忘れ、体中が不思議な幸せであつく熱していたんです。するといつの間にか後ろにライオンたちがいて、黙ってそのお話を聞いているではありませんか。やっぱりおなかがすいていたはずなのに、そんなことを忘れて・・・・そしていつの間にか、「そういえばおいらもワルだったなあ。弱い動物を見つけるとすぐ飛かかってしまった。神様ごめんなさい」。

そのライオンの後ろには、びっくり・・・森のいろんな動物たちがいつの間にか
勢ぞろい。いつもはうるさい小鳥たちも、今は神妙です。そこへこんな声が・・・・「小鳥たち、もう騒いでいないで、これからは森の平和の歌や讃美歌を歌ってください。・・・それからです、小鳥達の声があんなにきれいになったのは・・・。

★ さあ、みなさんはもうお分かりですね。このたくましい羊飼いが誰であるか・・・・・そうこの人こそイエス様です。イエス様が来られると、動物たちの世界にも素晴らしい平和が訪れるのですね。
  


Posted by 矢沢牧師 at 18:05

2009年09月02日

まず「感じる」感性を!

考えることの前に感じること
人間教育の順序(レイチェル・カ)ーソン)
★ わたしは、子どもにとっても、どのようにして子どもを教育すべきか頭をなやませている親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。
★ 子どもたちが出会う事実のひとつひとつ
が、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。
★ 美しいものを美しいと感じる感覚、新しいもの
や未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるも
のについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます。
★ 消化する能力がまだ備わっていない子どもに、事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切りひらいてやることのほうがどんなに大切であるかわかりません。
★ もし、あなた自身は自然への知識をほんのすこししかもっていないと感じていたとしても、親としてやることは沢山あります。  
 ★ 子どもといっしょに風の音を聴くこともできます。それが森を吹き渡るごうごうという声であろうと、家のひさしや、アパートの角でヒューヒューという風のコーラスであろうと。
  


Posted by 矢沢牧師 at 17:53