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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2011年02月21日

インドで知ったわが身の貧しさ

         インドで見えてきた自分のごまかしや偽り
                     荘内協会保育園長 矢沢俊彦
          (2011年2月13日日曜礼拝にて)

★ インドの貧民に触れるのは大いなる体験です。そこで私たちは「丸はだか」にされます。追いはぎにやられる、という意味ではもちろんありません(もっともそういう可能性もありますが)。それは「はだかである自分」をそこで見出す、という意味です。ですからインド(人)は、何も故意にやっていない。ただありのままの生活を見せてくれるだけです。
でもふしぎです。そこで聖書のことばがピーンとひびいてくるんです(たとえば黙示録3章14節)。インドの農村の光景は、まさにイエス様が活動しておられた世界そのもののようなのです。物乞い、障害者、らい病人、お金持、さまざまな宗教・・・その他みんなそろっています。

★ 日本にいて自分というものが分からなくなっている方には、あの農村行きを勧めたい気がします。太古の時代を思わせる粗末な石造りの家に住む貧しき人々。ほとんど家財道具など持たず、食べ物着物にいつも不自由している。しかしその中で考えさせられるんです。本当に貧しいのは彼らより私たちのほうではないのかと。
私たちは確かにいろんなもので装い、つくろい、飾り立て格好はつけてはいます。でもあの貧民の前に立つと、自分達の生き方、人間関係、生活力、そして信仰などにおいて自分の非常な貧しさやごまかし、恥ずかしさや罪悪感を感じてしまうのです。自分達の姿の偽りがすっかりあらわにされてしまう思いがする、ああ、これまで何をしてきたのか、これらの「偽装」の手立てをつくろうのに汲々としてきたのか、物心ついてからの営々たる努力は何を目指していたのだろう・・・などとうなだれたり考え込んだり・・・でもそうして自分の姿が見えてくるのは何よりうれしいことじゃないか・・・と思い返したり・・・ああいずれにしても、これは本当に手厳しいスタディ・ツアーであるなあ、と、ひそかに感じていました。

★ たとえば私はこうも思いました。もし自分があのインドの町や村に放り出されたらどうであろう。金が尽きれば、多分何もできまい。リキシャの運転なんかむろんわずかでもムリ。まず物乞いくらいだろう。でもそれもできまい。あれだってかなりの習練が必要なのだ。とても生きながらえることはできません。
 今の話は過酷に過ぎるかもしれませんが、それはわたしたちの置かれた状況を鮮明にしてくれているのです。・・・・すなわち、我々はこの世界に投げ出され捨てられ、誰からも顧みられない、守護者はおらず、あらゆる危険にさらされている・・・地上をはいずりまわるあわれなる虫ケラではないか。これが私たちがおかれている生の状況なのです。

★ きびしい気候や生活環境の中で、インドの貧民は、自分達の命がどんなに危ういものか、それがどれほど死と隣り合わせなものか、それはもう日々体感しているのです。リキシャ運転手の過酷さが象徴的です。あのとにかくすさまじい交通の恐るべき雑踏の中で、ほんのわずかな不注意やミスが命取りになるのですから。

★ であればこそでしょう、インドの人々は宗教というものにあれほど真剣に向き合っているのだ、と思われてなりません。ヒンズー教徒(国民の80%)の日常の行、瞑想・祈り・喜捨、そして巡礼やガンガ(ガンジス河)沐浴の有様に接して、私は何か異様な必死さを感じます。彼らの素朴ともみえる信心を軽んじることができるでしょうか?人口も約12%いるイスラム教徒も同様です。ああいう懸命さに比べれば、私どもを含め、多くの日本人の信仰生活なるものは、まるで「児戯(こどもの遊び)」に等しいかのようなのです。

★ インドが暴露してくれた私たちの姿。それはみじめな「はだかの王様」でありなおよく見れば、「血の中を転がりまわっている」(エゼキエル書16章6節)危うい生命体にしか過ぎません。で、そういう私たちは、ただ天の神様のあわれみによって拾い上げられ、洗われ着せられ食べさせられて、やっと今日あるを得ている・・・この大いなる事実をしっかり味わっていくなら、私たちはもう気もおかしくなるほど、大いなる感謝感激で包まれるでありましょう。
 結び  私たちの偽装や思い上がりを明らかにしてくれたかの国の貧民たち。「私たちが貧しい人々にどれだけのものを負い、教えられているか・・・それは天国に行ってわかるでしょう」(マザー・テレサ)。
彼らに深く感謝しながら、これから私たちも人間として少しでもごまかしのない生き方をしたい、とあのガンガの水を眺めながら思いました。そして(困難なことですが)弱い人たち貧しい人たちを踏みつけないで生きていくことも・・・。  


Posted by 矢沢牧師 at 18:20