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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2011年12月21日

荘内教会クリスマス礼拝

荘内教会 クリスマス礼拝

日時:12月25日(日)午前10時から11時15分
場所:荘内教会
    鶴岡市本町三丁目5-37
    TEL.22-8196

メッセージ:「どん底の人々への救い主」
              矢沢俊彦 牧師
独   唱: 中山 祥子

市民どなたでも、お出かけください。  


Posted by 矢沢牧師 at 14:35

2011年12月21日

クリスマス・メッセージ

民族的苦悩と信仰 
―最も美しき花は厳しい環境に咲く-

鶴岡  矢澤 俊彦
◆日本人の無宗教の不思議
 「こんな災難を受けながら、日本人はまだ無宗教なのですか?」と不思議がる外国人がいます。日本人のいわゆる「無宗教」・・皆さんも各人各様の御意見があるに違いありませんが、私にはやはりとても不思議です。これには、私が若き日に父の死に遭遇して以来、「死に勝つ」ことが人生の一大テーマとなったゆえの偏見もあるでしょうが、周囲を見ながら感心もします。人の命の驚くべきはかなさや短かさと、うまく折り合っているように見える。宗教なしにです!これはすごい。勇壮なる精神力と優れた「諦念」をもつ民族なのかなあ、などとも思うわけですが・・しかし疑問もあります。今みんなが求めている「元気」や真の明るさや希望なんかの根源をたどれば、それは優れた宗教が与えてきたものではなかったか、と思われるからです。それだけを追求するのは、「木に登って魚をとる」の類といえば強すぎるでしょうか?
 でもこういういわゆる無宗教的生き方には、宗教の側にも相当の責任がある、即ち、オウム真理教などの邪教が多すぎることは別としても、長い伝統を持つ宗教も、わが国民を揺り動かし覚醒させる有効な刺激を余り与えてこなかったからではないか、と反省しきりです。

◆島崎藤村の教会への不満
 たとえば私は長野県出身なので、今文豪島崎藤村の言葉を思い出します。『夜明け前』や『新生』という小説名にも象徴されるように、彼は近代的自我と家制度との相克等で深く悩んだ人です。その藤村が,キリスト教会で説かれることは余りに明る過ぎて物足らないと言い、こう続けています。
 「真の慰藉(いしゃ)なるものは、暗黒にして,且つ惨憺たる分子を多く含まねばならぬ。新生の真相といふやうなものは、その光景の多くは努力の苦痛と浪費の悲哀とに満たされたものかと思ふ。余りに光明ある言葉は、寧(むし)ろ聴衆を失望させるばかりである」。
 これは明治時代に記された言葉ですが、その後はどうか?多分今でもさほど改められてはいないようで、彼から一喝されそうです。お前たちはきれい事を言い過ぎる、言葉が深い悩みに裏打ちされていないぞ、苦しみからついに立ち上がった、という「ド迫力」が欠けておる・・と。こういう感性の鋭い人の眼をごまかすことはできないことを自戒させられます。そしてまことの信仰というものは、しばしば七転八倒の苦しみを経由してこそ成熟していくことを教えられます。

◆大宗教誕生についてのトインビーの研究
 悩みは人を深くします。きれいな花はきびしい環境に咲く、という話をある高山植物の専門家から聞いたことがありますが、世界で最高最深の宗教も、実は大きな苦しみの地で誕生した、というのが、あの歴史家の巨人英国のアーノルド・トインビーの主張です。彼は『歴史の研究』という膨大な著作でその検証結果を明らかにしたのです。
 その要点は・・・優れた「高度宗教」が生まれたのは地球上でわずかに2箇所、即ち北インドとシリアであった、というのです。そこは長距離交通の要路であるとともに、極めて異質にして優勢な文明に囲まれていたゆえに、その地の小民族は、それらとたえず対峙し闘争を繰り返すことになった。しかしあまりの劣勢ゆえ、幾度となく侵略され塗炭の苦しみが民族を襲い、いわば「三重のローラー」がかけられ続けた、というのです。即ち軍事政治的、経済的のみならず、文化的宗教的なそれであった。人々はその精神的屈辱や自己喪失のドロ沼的混沌にあえぐ中で、ついに彼岸と超越の普遍的世界を見出す。これこそ他のどこにも誕生し得なかった深さと世界性を持つ高度宗教で、それが彼らの苦しみに「意味」というものを与え、彼らを蘇生させた、というのです。それは民族的苦難を背景にした「創造的少数者」、あるいは個人の手によるものだったけれど。これがトインビー博士の検証のサワリです。話が大きくなりましたが、大変興味深く、またうなずけるものじゃありませんか!

◆恵まれたお坊ちゃんの国?
 ここで思いが及ぶのは我が国民の苦しみはどの程度か、ということです。日本は恵まれたモンスーン地帯に位置し、苦労知らずのお坊ちゃんたちの国だといわれます。だからキリスト教なんか分かるはずがない、という思いが、たとえばあのイザヤ・ベンダサン(ユダヤ人の名を借りて語った文筆家山本七平氏)なんかにあります。「日本教キリスト派」が精々だ、などという蔑称に反発するのも、お坊ちゃん育ちの強がりだ、と一蹴されそうです。
 でもきょうは皆さんと御一緒に、私たちの民族的な歩みをよく振り返ってみた「いのです。確かに「ひ弱な花」かもしれないけれど、それだけに少なくも、あの幕末の「黒船来襲」以来の大混乱と苦闘は、先ほどトインビーの指摘した文明間の闘争の(スケールは小さいけれど)新たなヴァージョンのような気がしないでもありません。

◆黒船以来の苦闘をたどって
 わが国も、鎖国を解いて以後、予想だにしなかった圧倒的に優勢な西洋文明の非常な衝撃と圧迫の中で、「和魂洋才」を合言葉に必死で戦ってきたのですが、ついに無謀な戦争に訴え敗戦。その後も懸命な復興努力を続けた歩みは、やはり苦難の連続でした。その百数十年というものは、国はもちろんのこと、どんな人々の心中にも、絶えず激しい嵐が吹きまくっていた年月ではなかったでしょうか。
 背は低い、国土は狭く資源もない、でも誇りをもって世界を堂々歩きたい、これが近代日本の国民的悲願でした。でもこのために流した先輩たちの血と汗と涙は決してわずかのものではなかった。今だってそうです。たとえば問題のTPP交渉や、サッカー・スケートなんかのスポーツ選手の活躍、あるいはあのオリンパスの企業犯罪。社長さんに20年間も直言できる人が誰もいなかった、という日本的体質にはあきれ、「神不在の風土」も感じます。が、こうして、経済界も文化そのほかの世界でも、私たちは長く相当の無理を重ねてきているのです。いつも何かに追われているようなせかせか齷齪の生活をまだ改められないでいるのですから!

◆丸裸にされた日本
 そこへきて今度の大震災、津波や原発の試練です。オウム事件や阪神の震災の時も、私はこの国が精神的にも物質的にも丸裸にされたように感じましたが、今回ははるかにあれ以上です。私たちはこの裸を覆う木の葉すらなく、まだ立ち尽くしている感があります。この国土も文明も、実に営々たる努力で築かれたものです。それが一瞬にして瓦礫化してしまうのです。自然は、ここにある花も美しいように、我々はどれだけその恩恵を受けているか分りません。短歌俳句もすばらしい世界です。でもその自然の本質には、かくも荒々しく残忍無比でどうにもならない面があることを知らされました。

◆砂上の楼閣だった
 呆然とする中で思います。私たちはこの素晴らしい現代文明の世界にも、また豊かなる大自然界のいかなる場所にも、私たちの魂を安らわせることは出来ない。その表面的な姿に欺かれ、このたびの悲痛な体験を空しくしてはならない、と思うのです。 
 今回明るみに出されたのは、この国が結局「砂上の楼閣」であった、ということ。先輩たちの幾多の獅子奮迅の努力にもかかわらず、です。今ようやく私たちも、このことに気づき始めているのではないでしょうか。そこで、これからこの国をどういう精神的基礎の上に建てていくか、決して再び瓦礫化しない頑丈無比の岩の上に新しい日本をどうして築いていったらいいか、これが実に大きな課題であります。

◆らくだが針穴をくぐるチャンス
 苦悩の中でこそ深い信仰が生まれる、というのが今日のテーマです。ここまで、即ち「黒船」から敗戦と大震災まで苦しんできた同胞たち、「無宗教」を気にもしてこなかった人々も、ここへきて宗教的なものの必要を感じ始めているのではないでしょうか?たとえば聖書にある有名な「迷える羊」の話、飼い主から離れた羊ほど悲惨な姿はありません。行き倒れ、赤肌を露出し、傷だらけで、息も絶え絶えであるというのです。
 あるいは今絶妙に思うのは、富んだ人が天国に入るのは、なんと「らくだが針の穴をくぐるよりもっと難しい」という話。これを聞いた弟子たちはぶったまげてしまうのですが、どうでしょう、これは今こそ被災者のみならず、多くの日本人に深い共鳴と慰めを与えるものではないでしょうか?自分が「無」に等しい存在だと深く自覚させられてこそ、救われるというのですから。

◆近代日本の救いのために
 優れた宗教―そこから芸術や文化も花開いたのですがーは、民族的な深い苦悩から誕生した・・とすれば、これはここまで苦しんできた今の日本人にも大いに示唆的です。もうエコノミック・アニマルなんて呼ばれたくありません。目指すは深い精神性豊かな国、そのために建てあげる堅固な岩を見出すことです。 このためには宗教の側の大いなる覚醒が必要です。父祖以来の国民的苦悩にいかなる「意味」を与えることができるか、それによって日本の近代は救われるのです。それによって、あの大戦や災害の犠牲者一人ひとりの命に意味が与えられるのです!

 長くなって失礼しましたが、最後に無宗教といわれるこの国の霊性精神性も、少し長いスパンで見れば、決して低いものでないことは既に知られています。それは和辻哲郎、亀井勝一郎、あるいは鈴木大拙   らの著作によってもよく分かります。師走に入ったせわしない日々ですが、今年は以上のような国民的課題にじっくり思いをひそめてみたいと思い、一筆させていただきました。失礼を御容赦ください。
(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)
  


Posted by 矢沢牧師 at 14:31