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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2012年05月04日

復活祭は妄想にあらず。

                      復活祭は妄想にあらず
                     泣くな、人は墓で朽ち行かず
                          矢沢 俊彦

   
                      人はただ朽ちゆくのか
★ 日々多くの友人がこの世を去り行く・・・またしばしば随分若き友も送らねばならないわびしさの中で、私はしきりに考える。人ははたして、やがて墓で朽ち行くほかないのであろうか?骨も砕かれ、土や水となり、人はすべて消え行く定めをどうすることもできないのであろうか?これは時として誰にも激しく襲う深い不安です。その時、やれ人は風になるだの、星になるだのと歌ったり、それで幼な子からの問いを回避したりしますが、それは何の慰めにもなりません。
★ この深刻な問いに真正面から答えようとしてきたのがイースター(復活祭)という大祭です。今年は4月8日に始まり、その後7週間、世界の多くの人々が思い続けるのは、十字架につけられたキリストが墓からよみがえったこと、そしてその命の息を吹きかけられると、生ける屍みたいだった私達も、瞬時に生き返って別人のようになり、やがて「永遠のいのち」を与えられる、そのさまは、たとえて言えば、水中のヤゴがトンボになって広い天空を自由に飛び回るようなもの、というわけです。
             
                       科学至上主義の浸透     
★ しかしこの「復活」を信じ受け入れるのは、現代人一般にはとても困難です。そんな馬鹿馬鹿しいことが、といって相手にしないし、興味関心すら持たない人が多い。
それはなぜかといえば、近代人の意識や価値観が徹底して「科学」というものに浸透されているからです。確かに「死人の復活」は科学的に証明できません。でも証明できないものは存在しないかというと、そんなことはない。たとえば、愛や憎しみや不安・・・これらがどんなに大きなエネルギーを持っているか、これは日々経験が教えてくれています。
★ そのように、復活を信じた人たちには強力な愛のエネルギーが注がれ、恐れを知らぬ勇気の人に変貌していった。自分の弱さに泣かされていたペテロという弟子も、先生と同じ十字架では相済まぬ、といって、自ら「逆さ十字架」にかけられた、などと言い伝えられています。その後も歴史で学ぶように、多くの激しい試練や迫害や殉教にうち勝つ大きな力の源が、復活による永遠の生命の希望にあったのです。
         
                     欧州文化は集団妄想の結果か?
★ ところで科学的思考をすべてと思う人々は、これらを疑惑の目でみます。キリストがよみがえったなんて・・死体を盗んでおいたのでは・・幻影を見たのでは・・に始まり、あらゆる批判と疑問を投げつけてきました。中でも、社会的精神的弱者や奴隷的人間の「願望の投影」だ、というのはその代表的なものです。言わば、復活がほしいという人たちのでっちあげた「集団妄想」の類だ、というのです。しかし・・・。
★ そんな大きな妄想があるものだろうか、と私はたとえばヨーロッパの文化を見て思うのです。多くの国のどこへ行っても、町全体が美術館だと感じるほどのスケールであるのに、あのすべては巨大なる「集団妄想」の結果なのだろうか?そういうものに、人類はかくも長くとりこにされるものでしょうか?
        
                     無数の人たちを長くはだませない
★ よく言われるように、わずかの人を長くだますことはできる。また多くの人たちを短期間夢中にさせることも可能である。たとえばあのヒトラーや他の独裁者などのように。でもこの2千年もの間、これほど多数の(今でも20数億という)人々が、虚偽と主観的思い込みの犠牲となり続けるなんてことがあるものでしょうか?もしそうなら、彼らはなんと憐れむべき可哀想な人々、生涯をうそ偽りのために全く棒に振ってしまっている精神を病む者の大群・・それが復活信者なのだろうか、と。
★ しかしそういう「みじめなる?」人々が、嬉々として、たとえば放置されていたハンセン病者などあらゆる弱者に近づき、アフリカの黒人奴隷を助け、他の様々な社会改良に手をつける一方で、あの壮麗なる美術文化の花を開かせ続けている・・・。宗教をすぐ暴力や戦争を思うのは、あまりに一面的かつ断片的印象にしか過ぎません。さてこういう卓越した復活信仰の果実を、現代の科学至上主義者はどう解釈するのでしょうか?科学ですべてを割り切ろうとする行き方こそ、憐れむべき妄想狂者かもしれないのです。
            
                       火あればこそ煙朦々たり
★ 事実は・・「火のないところに煙は立たず」。この2千年の歴史を通じて、実に朦々たる煙が立ちこめ、私達は目もあけておれないほどです。確かに猛烈な火元があるのです!その火に近づくほど、人は生き生きとした「炎の人」とされていく。これは実証的事実です。その火元の実体は証明できませんが・・・。
こうなってくると、私達もそこに近づきたくなってきませんか?あるいはいっそ「騙されて」みたくもなりませんか。もしそんな喜びの人生が本当に開けるならば、です。
            
                       愛する人とは再会できる!
★ 事実、復活という猛火に包まれた人々はみな、その「聖火」を内に燃えたぎらす別人のように変貌しました。それまではいつも死を恐れ、世間や人の眼にオドオドし、病気や災いにビクビクしてばかりいたのに・・・。「自分は愛されている」、「自分は墓に朽ち果てることはないのだ」という喜ばしい確信が強くなっていきます。      
★ 愛する者との別離は、人生最大の悲しみでしょう。愛が純粋で強ければ強いほど、悲嘆は我々をどん底につき落とします。それをどうするすべもありません。この会者定離という岩よりも固い定めを打ち破るのもイースターです。「泣くな、お前は愛する人と必ず再会できるのだ」、が新たな理(ことわり)となります。これまで流されたすべての涙は、そうしてぬぐわれるのです!
            
                       痛ましい我らの近視眼
★ ここまできて、私どもは初めて、安心して人を愛せるのではないでしょうか?子育てや保育や仕事の前提にも、「愛の永続性」の確立が必要なのです。
 これは人生最大の課題ですが、もうノンビリしてはおれません。とかく自分の身にふりかかってきてから大あわてするお互いなのですが、それでは間にあいません。それは私どもが、全く痛ましいほど「近視眼的に」生きているからでしょう。その視野狭窄が自覚されないゆえに、これほど間近かに迫ってきている大きな災いに備えようともしない。今世間では「防災対策」に大騒ぎしていますが、それよりはるかに騒がねばならないのは、百%確実に襲ってくる死に勝つ生命の探求ではないでしょうか。
            
                     愛ある天父は子を滅ぼさない      
★ でも世の人々よ、大いに安心せよ」と復活祭は呼びかけます。世界は造物主の愛で満ちています。きょう1日生きているだけでも、もうどれだけの恩恵を受けていることでしょう。私どもはわずかの空気や水滴だってつくれはしない無力そのものの生き物です。でもこうして無償で与えられている途方もなく有力な無数の恵みは、どの一人も深く「愛されている、愛される値打ちがある」ことの誤りなき証拠でなくて何でしょう。そもそもこの世界そのものが、私達の想像をはるかに超えた愛と好意の巨大エネルギーによって支えられているのです。そういう中でこそ、私達のいのちも一瞬一瞬生かされているのです。
★ 人間の親の愛も、海より深く山より高いものです。しかしそれをもう絶対といっていい、それをはるかに凌駕する強靭な好意や善意が、ひとり一人に集中して押し寄せてきているのです!
               
                      復活祭の猛火が燃えている
★ 以上を踏まえると、我が子の滅びや消滅に手を貸す親がいないように、「天の父」は哀れな地上の子らが死の力に連れ去られるままにされるはずはない。必ず善処してくださるのです。来世での新生命は風や星になるのではない。魂や霊だけがゆらめくのでもない。ほかの動物に変わるのでもない。この地上の姿や個性や意識が清められて再生させられるに違いありません。
★ イースター(墓からのよみがえり)の喜びの火は、猛火となって人々に広がっていった。死に勝った人々は、もはやこの世に恐れるものは何もなかったからです。親しい方々がどんどん去り行く中で、私は読者の皆さんに、こういう人生の可能性が開けていることをお知らせしたく、一筆させていただきました。
             
                   永遠の生命が燃えているケルン大聖堂
★ ドイツにあるケルン大聖堂は、ゴシック建築の代表として有名です。157メートルの双塔の尖塔からは、ひたすら天に向かう憧れの大合唱が聞こえてきます。驚くことに、この建築が着手されたのは1248年、竣工は1880年だというのです。この間実に632年が経過している。これはもう「永遠者」相手の大事業です。これに関わり支えた無数の人々の心中に、永遠的な生命が燃えていた。その喜びの歓声、天への叫び、遠い世代への切なる呼びかけ・・などが聞こえてきます。
 でも最後に注意してください。かように、ヨーロッパ各地の豊かな文化に、目を奪われていてはいけません。実はそれらは燃える炎から飛び散った「火の粉」のようなもの、本体から出た「派生物」に過ぎないことに気づかねばならないのです!。
★ この地にもようやく春が来たり、桜も満開になります。でもたちまちそれは散り行き、夏が来ます。この無限的循環の繰り返しに、救いはありません。天からくだり、私達を燃やしてくれる炎に触れてこそ、「永遠に爛漫たる春」を楽しむことができるのです。
(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)

 

  


Posted by 矢沢牧師 at 15:01

2012年05月04日

人様に役立ちたい/利他心について

                     人様に役立ちたい人間
                     悶々たる人の転換の道は
                         矢澤 俊彦

                 生き生き奉仕するボランティアたち
★ このたびの大震災後を見ていて私が導かれるのは、少し大げさに言えば、「人間ってそう捨てたものじゃない」、「今の日本人にも、他人への優しさや思いやりがあふれるほどあるじゃないか」という発見?です。
★ ことに外国人も含めて被災地に駆けつけている様々な形のボランティアの働きには目を見張らせられます。
その人々がいかに生き生きとして、目立たない清掃や瓦礫の撤去作業などを根気よく続けているか、あるいは被災地の子らを、全国各地が迎え入れ激励してくれている。そういう様子はもう文句なしに感動的です。
そしてみんなから異口同音に聞かされるのは、「いくらかでもお役に立てて本当にうれしい」という美しい言葉です。これがうそ偽りでないことは、彼らの表情や態度ですぐ分かります。

                     人様のお役に立ちたい!
★ そこで私も内心を振り返り、自分に問うてみるのです。いったいお前はどういうときに一番幸せや充実した生きがいを感じるのか、と。
するとやはり同様に、人様から迎えられ用いられ、感謝されることではないか。こんな自分だけど、誰かの幸せのために役立っていること、これではないか、と思われてなりません。
★ 身近な例ですが、たとえば、八百屋さんや魚やさんでも、「こないだのあれ、とってもおいしかったよ」と言われるのがうれしくて、とよく聞かされます。多分これはもうどんな商売でもそうでしょう。

                     人を殺す社会的無用感
★ 逆に、こうして生きているけれど、自分は誰のためにも役立ってはいない、何だか歓迎も感謝もされず、むしろやっかい者邪魔者扱いされているとすれば・・・・人間的誇りはうち砕かれ、悲しみが押し寄せてきます・・。
★ そうなると段々何だか死んでしまっても惜しくないような気分にもなってくるのが人間です。自分がこのままこの世から消えたって、ほとんど誰も深くは悲しんでくれまい。むしろ厄介者がいなくなって喜ばれるかもしれない。人の気持というものはどうにもなりませんから。
★そこで成り立つ公式は・・・「社会的有用感」は人間をして人間らしくするけれど、「社会的無用感」は、人をして「生けるしかばね」にしてしまう。  

                     高貴なる名門の出なる人間
★ そうです。人は自分のためだけに生きて「生きがい」を感じるのではない。驚くなかれ、他者のために一身を捧げてこそ、最大の幸せが得られるもののようなのです!さてさて人間とはなんと高貴で崇高な存在であることか!
★ とかく利己的で自己中でわがままでどうしようもない醜さにふり回されているような我ら人間。 でももしかしたら、この「利他心」の方が、その本質かもしれないのです!
大震災は、少なくもこの偉大な事実に気づかせてくれたのです。

                     利他心を発揮しにくい文明社会
★ それだけに、現代の社会が大変悲劇的だと思うのは、そういう「世のため人のために役立ちたい」という、とうとい利他心を、存分に発動し発揮する機会や相手やニーズを見出すのがとても困難だという傾向です。
★考えてみてください、どれほど多くの人たちが心の中でつぶやいていること
か。「ああ、私も何かで人様に喜んでもらいたいものだが・・・」。

                        夫婦も面白くない
★ たとえ仕事があったり家族がいたりしても、普通は余り深い感謝の言葉は交わされません(ことに日本では)。働いたり家事をするのは当たり前と互いに思っている。たとえ定年まで懸命に勤め上げてもです。そこで夫も妻もつまらない思いでとかく長い間「悶々」としているのです。

                     有用性で人の価値をみる社会
★ こういう不幸を加速させている社会的背景もあります。たとえば、互いをライバルと見勝ちな競争的社会、個々人の能力や働きなど人間の「有用性」重視の傾向、さらにこの日本が一応経済発展を終えすべてが整然と管理され、何も問題がないかに見えることです。本当は苦痛だらけの阿鼻叫喚の世の中なのに。それを見る眼も閉ざされているのです。
              
                        犯罪の裏に孤独あり
★ 事実は、多くがさびしさや無用感で、人間らしさを奪われています。スポットライトを当てられる人はほんの一握り、ほとんどはねたみや羨望の眼で、指を加えて見ているだけです。
★ 誰からも求められす、役割も期待されず、注意も感謝もされない。居場所がないのも何とつらいことか。
★ 孤独は余りに苦しいので、そこから脱出するために、人は何でもしそうです。 世間を驚かすような犯罪者を捕らえてみれば、何のことはない、親しい友が一人もいなかったから、なんてことはよくありますね。

                        矛盾の中にいる人間
★ これまでをまとめれば、私達は、人様に役立ちたいという熱い思いをもつ、いわば名門の出である。それなのに普段の地味な生活では、それを生かすことができないために、人間的生活が脅かされている人が実に多いということ。これが現代の不幸な一面なのです。

                     天地にあふれるメッセージあり
★ 以上この時代の問題を長々と記し恐縮でした。さあ、それではどうしたらいいか。以下に私の考える解決篇を述べてみましょう。
★ まず肝心なことは、今どんなにつらくても、人生をあきらめてはいけない、投げ捨ててはいけないのです。どうしてこのまま朽ち果てていいでしょうか!
★ よく見れば、天地は私達をいやし蘇生させる数多くのメッセージで満ちて
います。
犬のふぐりのような雑草、高山に咲く花々、飛んできた一羽のすずめ、春の小川やそよ風、ふとラジオから聞こえてきたなつかしのメロディー・・それらが私達にささやいてきます。
「さあ、涙をおふき、私達がいるよ」、と出迎えてくれています。
★ さらに幼な子の歓声、テレビに映る女性の優しい笑顔、お年寄りの知恵あ
ることば、懸命に立ち働く医師の姿・・そしてたぶん最善なのは神仏に見出されること。
我ら無数の好意善意の只中にあり
★ こんなに小さく無力で、おまけに醜い自分。わずかの空気も水一滴も作
れないのに、おびただしい好意と善意の只中にいるのに・・・・自分はこれまでそれに背を向けてきたのでは?
★ この世界がまるで「敵意」で満ちているかのように恐れてきた。でもこれ
は、もしかしたら大いなる錯覚かも。・・そうだ、とんでもない勘違いに相違なかろう。もし自分がこの世界によって受容されているとすれば・・・これは大変なことです!

                   心中のマグマが爆発して
★ さあこうなったら、すぐ立ちあがり進み出て、この誤りを謝罪し、天地と和解しなければ、という衝動に駆られます。
★ やがて引き裂かれ血だらけだった自分の内面は、大きな大きないやしの力でいっぱいになるでしょう。すると統一された自我のパワーは以前と比べようもないほど力強いものになっていきます。長く抑圧されてきた内部のマグマが爆発するからです。心の空はなんとすっきり晴れわたることでしょう。すると不思議なことに、周囲の苦しみにあえぐ人たちの姿が見えてきます。この国全域も、見えざる津波に襲われ破壊されている様子もはっきりしてくるのです。それまでは自分の中に同じ葛藤があったために、それが隠されていた。言わば「心眼が開く」のです。
★ すると湧き出してくるのは、すべての事物や人々への深き感謝の念です。何も出来なくても、これだけで大きなお返し。そして出きることならさらに、何かの形で「誰かのお役に立ちたい」、との思いも生まれてきます。

                   利他の本質に生き始める
★ 他のために自分を役立てることができるのだ!最初にお話したように、これほど人を生かす思いはありません。それは人間というものが生来「利他的」につくられているからです。 どの一人も、こういう高貴にして、美しい精神を宿している。これにはこの世の花もどうやら顔負けです。これをなんとしても開花させねば。
★ こうして、社会的無用感によって殺された人々を再生させる社会的有用感が生きて働き始めます。まさに雪に埋もれていた木々に、ついに喜びの春がやってくるように。
★ 長く続いた閉塞状態ですっかり疲弊している平成の日本。そこへ大震災が起こり、ますます元気と希望をなくしています。
★ でもこのたびボランティアたちが教えてくれた人間復活の道。これは限りなく尊いものです。さあ私達も嘆くのはこれくらいにして・・今すぐにでも飛び起きて、利他の道を全力で走り出そうではありませんか!  (鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)
  


Posted by 矢沢牧師 at 14:50

2012年05月04日

教会学校(子どもの教会)のメリット5つ

                        受容こそ死人を生かす
                       閉塞日本人の復活の道は?
                           矢沢 俊彦


                       「入れてーいいよ」         
★ 何人かの幼な子が遊んでいる。そこへ新たに2、3の子がやってきて呼びかけます、「入れてー」と。するとまず必ずといっていいほど、「いいよ」との明るい返事です。なんて彼らの心は広いんだ。相手を選ばず受け入れる、あの寛容さはどうだ。誰しも心動かされるこの光景ですが、子らはその同じ寛大さをもって、私達大人も仲間に入れてくれる。「うれしいな、さあ一緒に遊ぼう」と言わんばかりに。
             
                  この「受容」こそ自分は求めてきた
★ しかも彼らは大人のように何も問わない。無条件で「いいよ」と笑顔で迎えてくれるのです。
★ さてその時、私達がふと思うことは・・・自分がもうずっと長く求めてきたのはこういう経験ではなかったか、ということ。何も聞かれずに受け入れられること。そうしてくれる相手と、その心の広さ優しさに包まれたい。この感動的体験ではなかったか、と。

                   守られているという安心感こそ
★ そしてまた考えるのは、いったいどうして幼な子たちには、ああいう豊かな包容力があるのか、ということです。私が今思うのは、彼らには「自分が守られ、保護(庇護)されている」という深い安心感があるからではないか、と。
その証拠に、もし母親なり保育士さんの姿が見えなくなれば、ただちに遊ぶどころではなくなり、泣き始め、たちまちパニックになるからです。守護されている安らぎこそが、あの魅力的行動の推進力になっている、と考えられるのです。
              
                    最大事を喪失した大人たち
★ ところが大人になった私達は、すっかり異人種に変貌、あの大事な「庇護感」を失い、大変不幸な事態になってしまったのです。まず自分で自分の身を保護し維持し、あらゆる危険から守らねば・・・。さらにそのために自分を主張し、学習し働き、厳しい競争の中で自分の価値を周囲に示さねばならない。  こうした多くの課題や圧迫のために、大人たちはとかくいつも緊張し、追いつめられ、かつての遊び心を忘れ、重荷に苦しめられています。
その内面は孤独感や疎外感、社会的無用感などに脅かされ、明るさや元気は遠のき、精神は飢え渇き、悶々とした日々が延々と続くのです。
★ もしも幼な子のように深く自分を受容してくれる仲間がいるとしたら、私達はどんなにいやされ、満ちたり、生きがいを感じることでしょうか。我が子や孫がかわいくて仕方ないわけも容易に納得がいくゆえんです。
この大事な「気づき」から、さらに深く徹底したいやしへと進み、ついにこの悪に満ちた世界全体をもこの腕で抱擁できるまで力を得るなら・・・との大いなる願いも起こってきます。

                     受容を血眼で捜す現代人
★ でも日常生活の中で与えられる癒しの多くは断片的で、そう長くは続きません。 そこで私達はどういうことになるか。それは絶えず巷をさ迷い歩いたり、世界を放浪しながら、自分をこのままで受け入れてくれる「受容体験」を血眼で捜し求めることになります。
★ 夕方になると、何となくさびしさわびしさにさいなまれる。すると人恋しさで、足は自然に酒場に向かう。またしばらくでも「憂さ晴らし」になりそうなさまざまなものに吸い寄せられていく。また騒がしいほどのあらゆる音楽が流れ、気晴らしになる色々な娯楽やスポーツや賭け事などに欠けることがないのです。また老いも若きも夢や希望を失い、向上心や労働意欲も減退しています。さらに驚くような暴力的犯罪者は、たいてい孤独なまま放置されていたことが明らかにされています。

                       絆が薄すぎる社会
★ 結婚生活なるものも、本来は、互いを掛け値なしに肯定し合うことから出発したはずなのに、ほどなくしてどっちにもある心の空洞のために、「限りなく奪い合う」(有島武郎)無残な狼同士の関係になり勝ち。相手の浮気に気づいたら、それまでの歩みを深く振り返って、「相手に感謝する」(美輪明宏の言葉)ほどの本物の愛は、めったに見られないのが現実でしょう。

                      内なる空虚と魂の分裂
★ 私達は戦後の長い歩みの果てに、内なる空虚や魂の分裂、ニヒリズムや隠されていた絶望を、いよいよ顕わにせざるを得なくなってきています。いよいよ「自分の穴の中」に閉じこもり、他人との関わりを避け、 うずくまって声も出さず動くこともしない。
それは重ねてきた放浪生活で、もう疲れきり、無力感のとりこになっているからです。社会や不幸な人のことも気になるけれど、歩み出していく元気も剥ぎ取られ、みな押し黙って顔も見合わせず、話も議論も、まして笑い合うさざめきも聞こえない、そうじゃありませんか?不気味な「沈黙の日本」になってしまっています。
                  
                     経済発展の代償余りに大なり
★ どうやら私達は経済成長のために、皮肉にも想定外に大きな代償を払ってしまったようです。今回の津波や原発騒ぎがなかったとしても、この社会の深層では、見えざる震災や津波が何十年も破壊的活動を繰り返してきたように私は感じます。その結果、お互いの心は長い葛藤でエネルギーを使い果たし、燃え尽きそう。視力も弱り、この先のビジョンも見えにくいのです。これが現代日本を覆う「閉塞」の実体だと私には思われます。
 
                        暗黒をまず直視せよ
★ 読者の皆さんの中には、これまでの分析は暗すぎる。もっと明るい面、いい点が幾らでもあるじゃないか、と思う方がいるかと思います。私もそれを否定しません。でもたじろがず直面すべき暗黒がある、ともお考えになりませんか?それを転じて希望の国にしたい、というのが私の本旨ですよ。

                       受容の力は死にも勝つ
★ さあそれではどうしたらいいのか?私見では、本稿前半に記した「受容」ということを徹底して考えてみたい。本当に受け入れてくれる人がいるなら、人間というものは世界のはてまでも勇んで出かけていくものです。自分の全財産だって捧げてしまうし、どんな苦労や努力も惜しまないのです。
★ 深い「受容」というものに出会えたなら、もう人は何物も恐れなくなります。もう全く別人のようになり、出会うすべての人に好意を持ち、事物を愛し、世界は遊びきれない一大レジャーランドに変貌していく。
そうした中で、恐れていた死の脅かしさえどこかへ消えていく。自分が大いなる愛によって庇護され守られている、と確信させられるからです。

                       飢えた狼との自覚から
★ でも再び、そのためには・・?それにはまず、自分が「飢えた狼」であったこと、惨めな「餓鬼」であり、「裸の王様」であることに気づいて泣き悲しむことから始まると思うのです(口はばったい言い方でおゆるしを)。
 
                       今与えられる受容体験
★ すると、こんな自分を生かし支えてきてくれた身近かな人々への感謝が湧き出してきます。幼ないころからお世話になりながら、もはやお礼のひとことも伝えられない無数の人たちの姿が見えてきます。自分を生かすために身代わりになった人たち。戦争犠牲者はじめ、沢山の動植物・・。

                       呼びかける幼子と世界
★ かわいい幼な子すら、見よ、あんなにして広い心で誰彼なく受け入れ、人類のあるべき姿を毎日教えてくれているではありませんか。恥ずかしくて、とても彼らの前には立てない自分を感じます。
★ さらにこの世界は幾多の災いにあふれているけれども、それより全く比べようもないほど、おびただしい「好意と善意」が、こんな私にも押し寄せてきていることに注目しなくてはなりません。
無力で卑小な私たちは、実際わずかの水や空気すら作れない。でも太陽が頭上に輝かぬ日は、これまでの生涯で1日だってなかったのです!天からのメッセージも聞こえてきます・・・・あなたは全世界から「受け入れられ歓迎されています。あなたは大喜びで生きていいんです。ここで遊び放題遊びなさいよ。死ぬなんてとんでもないからね」。
★ 春爛漫を迎えた庄内。さあ周囲に注意しよう。生きとし生けるものすべて
が、私達に呼びかけ、万物の背後の造物主もまた私達をその最も深いふところに受け止め迎え入れてくれてはいないかどうか、あらゆる暗さを雲散霧消させる驚くべき光が迫ってきていないかどうか・・・・。
(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)
  


Posted by 矢沢牧師 at 14:38