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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2013年07月23日

鶴岡江戸川友好交流演奏会

鶴岡江戸川友好交流演奏会
モーツアルトの「戴冠ミサ曲」等近く公演
-壮麗で堂々、深き敬虔が-
矢澤 俊彦

「翼をください」と叫びながらも「翔べない鳥」のような私たち。
あるいは「迷子の羊」のようであり、時に「あわれな乞食」のような姿にも感じられる私たち現代人。
そこへあわれみ深い、しかも怪力を持つある人がやってきて、私たちのすべての傷をいやし、慰め、翼さえ与えて、天空を思う存分飛びまわれることができるようにしてくださった。
これまで味わったことのないような感謝と喜びで全身が包まれます。
こういう世界へ私達を導いてくれる方こそ、メサイアと呼ばれる救い主キリストなのです!
 「ミサ曲」というものの誕生の背景には、こんなにも不可思議で驚くべき喜びが隠されているのです!
 今回上演の「戴冠ミサ」。これは国王とか王様など、上に立つ人の就任をお祝いしながら、与えられた権威を神さまの思し召しに従い、正しく行使できるよう、「主をあわれみたまえ(キリヱ ヱレイソン)、と祈るのです。

 今回のミサ曲はモーツアルトの傑作で有名なもの、今から約250年前のドイツの戴冠式で用いられたものです。

 モーツアルトは1777年、職を求めて母親と一緒にでかけたパリで、なんと母親が病死、悲しみ癒えざる中で作られたもの。もしかしたら、最愛の母が、天に迎えられ、「王位」に就くことを悲しみのうちに神様にお願いしていたのではないか、と私は思うのです。
25分ほどの作品ですが、荘重と歓喜、そして神に近づく深い敬虔に満ちたもので、聞く人の魂をゆさぶり、慰め高めてくれる名品だと思います。
 このたび、江戸川・鶴岡の市民合唱団を中心にした約百名ほどのグループが、この名曲に挑戦されるのは、全く素晴しいこと。
団員たちは、それぞれ仕事や家事などで多忙な中、もうこの1年以上をかけ、毎週のように練習に励んできたようです。
会長の滝沢 元さんが、よくまとめ導いておられます。このもう16回目にもなる催しが大いなる意義あるものとなり、鶴岡や庄内の活性化に資するよう、全市民こぞってでかけようではありませんか。

 日取りは、7月28日(日)の午後2時から、鶴岡市文化会館が会場です。
 当日は山形交響楽団が出演、独唱者は、東京から来援のテノール宮里直樹さん以外は、地元でオーディションをして選抜された方々です。バリトンは鈴木 集さん、ソプラノは中山祥子さん、アルトは川田麻美さん。
指揮者江上孝則さん。多くの経験の中でも、1995年、バチカンで、「終戦50年平和祈願ミサ」において、モーツアルトの「レクィエム」(死者のために祈る鎮魂ミサ曲)を指揮、その様子はイタリア全土に生中継されたそうです。
合唱団は、鶴岡江戸川交流合唱団の、江戸川第九を歌う会ほか、女声アンサンブルろすまりん、遊佐混声合唱団も出演します。

当時上演のされるその他の曲目(小品)には、以下のものがあります。
 ★ ドブロゴスの「 ミサ」
 ★ モーツアルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」 第一楽章
 ★ ヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」
 ★ 高田三郎による「心の四季」から「風が」

入場前売券は大人2500円(当日は3千円)。
チケットは、NHK文化センター、荘内日報社、八文字屋ヱビスヤ店などで。
問い合わせは22-4349まで。  


Posted by 矢沢牧師 at 17:03

2013年07月23日

人間は誰も高貴な存在なのです

人間は誰も高貴な存在なのです
-人助けを願う心こそ-
矢澤俊彦

救援で別人のように輝いた人達
東日本大震災救援ボランティアたち。
その中には、日ごろ「自分なんか役立たずでお荷物だ」と、嘆いていた人たちがかなりいたようです。
でもあの現場で、自分が求められ、用いられると、もう別人のよう。
自分でも驚くほど、生き生きと働いた。人助けは、大きな生きがい感を与えたのです。
自分のために頑張るもよし。
でも他人に喜ばれる働きからは、もっと強い喜びが生まれるのです。

他人に役立ちたい人間
卑近な例ですが、パンやさんや八百屋さんも、お客さんに喜んでもらえることが一番うれしい、という。
大工さんも車やさんも、レストランの御主人も・・・
これはもうどんな人も、口をそろえて言いますね。 
逆に、自分が人様の役に立たない、無益な存在だと思うことは、とてもつらい。
生きがいが奪われ、誇りは傷つけられ、自虐的にもなってしまいます。
どうやら私たち人間の心の奥底には、誰かの役に立ちたくて立ちたくてたまらない、人を幸せにしたい・・・という、とても激しい願いや思いが隠されている。
それは「高貴」とさえいえるほど美しいもののようなのです。

人間観の大修正が必要
 どうやら私達は、お互いを大変間違った眼で見ているのではないか。人間の悪が目だち、人間性もおかしくなってきたように感じられもする昨今。
でも人間は元来もっともっと美しく清らかなのです。
ただその素晴しさを発揮できないでいるだけなのではないでしょうか。

外から求められることが必要
それが十分発揮できるためには、私たちは外から呼びかけられ、求められることが必要です。
震災救援の際には、あのひどい状況やニーズが呼びかけてくれたのです。
すると平穏無事と見える日常の中でも、私たちはお互いになるべく声をかけ合い、求め合い助け合うことが大事になってきます。
でも平穏無事とは一面困ったもので、とかく私たちの元気を萎えさせる。
その中で猛然と生き、絶えず高揚した気分で密度の濃い日々を送ることはとても難しい。
よく見れば、もう国中の人々が様々な見えざる震災や津波に襲われ、もう死にそうになっているというのに。
でも私たちの多くは元気を失い、生きているだけで精一杯という状態に落ち込んでいるのです。
誰からも呼びか出されず、誰に呼びかけもしない毎日。興奮も感動もなく、何ごとも起こらず、しぬほど退屈な人も大勢いるのです。
でもここが肝心。私は心底思うのです。
そういう、言わば「生けるしかばね」のようで、人生のどん底に低迷している人にこそ、人間復活の最大のチャンスがあるということです。

どん底から引き上げられた人こそ
古来いつの時代でも、本当に人助けをなし得たのは、そういう底の底から引き上げられた人々でした。
それは日々の無力感挫折感にうちのめされる中で、「天の声」を聞いた人でした。
それはこの苦しみの海のような世界であえぐ人々の背後からの大声でした。
「私にはお前の悔しさがよく分かる。お前の人の役に立ちたい、と願う心こそ最高に尊いのだ。さあ、私が力を貸してあげよう」。
優れた宗教は、どれもこう語り続けています。
それに接するなら誰でも、不思議に満身の傷もモヤモヤも雲散霧消、「内心のマグマ」が爆発し始めるのです。
そして目の色が変わり、猛然と動き始め、学び始め、祈り始めるのです!
高山の谷間で、かれんな花が天に向かって咲き誇るように輝いていくのです。
(鶴岡市本町3丁目 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)。
  


Posted by 矢沢牧師 at 17:00