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2013年08月31日

逝きし友を得る道は?

逝きし友を得る道は?
―「目覚めよ、と呼ぶ声あり」―
矢澤 俊彦

友を送る深きさびしさ
「嵐吹く騒がしき世に 日々友は滅び行く」、というさんびかの一節があります。
「滅び行く」と私は思いませんが、実際多くの友がどんどんこの世を去っていく。ほんの1、2週間のうちにも、私達はどんなに多くの別れを経験させられることでしょう。そのほとんどが実に悲しい。特に年若き者や、思いがけない事故や病気で逝く人々には、送る言葉すら浮かびません。そのたびに自分の命も削られていく思いがします。   まるでこの世界には大洪水が押し寄せてきていて、これに何とかして有効に対処しないなら、その巨大な流れに流され、どこかに連れ去られていってしまう気がします。
保育園と古き墓地
先年温海地域に散在する保育園を訪ねたとき、園児たちが日々通う道のすぐ脇に、年を経たお墓が広がっている光景に出くわしました。
私は「はっ」とし、深い感慨に引き入れられ、両者の距離のつかの間であることを悟らされました。そこで思い出したのは、西欧の修道僧の日頃の合言葉です。「メメント・モリ」、即ち、「汝は死ぬべき者であることを覚えよ」です。こう挨拶し合って修行に励んだというのです。
酔生夢死に誘うもの
「酔生夢死」(酔ったように生き、夢見るように死んでいく)といわれる人生に陥りがちな私どもです。先にこの世を去った無数の先輩たちも、「メメント・モリ」、と叫んでいるのではないでしょうか?  「きょうの日が汝の終わりの日と思え」、というフランスの賢人モンテーニュの言葉もあります。昔から、哲学というものは、「死の演習」である、とも言われてきました。
でも凡人である私達の多くは、精神的惰眠(だみん)をむさぼり、不注意かつ怠惰です。快楽を追い、面倒なことをあと回しにします。それはどこかに巧みな魔法使いでも隠れていて、私たちの目覚めを妨害しているかのようなのです。 その手口は、我々を夢中にさせ、酔わせてしまうようなものをとりそろえて、次々私たちの周囲に置いておくことです。心地よい季節の移り変わりはじめ、仕事や勉強、恋愛や子育て、得たお金や社会の評価、健康づくりや飲み食いや旅行など楽しい娯楽も。
それ自体すばらしいものであるだけに、それにおぼれ騒いでいるうちに、かけがえのない「時間」というものを、やすやすと盗まれている!お金には代えられない大事な宝を、どんどん盗みまくる怪盗のほくそ笑みが見えてきそうです。
医学発達の皮肉
私達がいつまでも生きられるかのように錯覚させるのも、彼らの手のひとつです。数年前なくなった有名な精神医学者土居健郎(たけお)は、現代医学の発達が、人生の短さを気づきにくくさせる皮肉を招いていると述べ、続いて、あの子規や鴎外など、明治の文豪が早熟だったのは、当時の医療事情が悪く、誰もあすのいのちも保障されない境遇を生きていたからだ、と指摘しています。
はたして死を克服できるのか
さて、それではどう見ても「負けいくさ」のように感じられるこの人生、ことに容赦なく散らつく死というものに、何らかの仕方で「うち勝つ」ことができるものでしょうか。これが問題です。そしてこれこそ古来、賢人や哲人が、そしてわけてもすぐれた「宗教」というものが今に至るまで格闘を続けている大問題なのです。 そこで私がわずかの紙面でズバリ答えることは到底無理ですが、8月の間に導かれたことを勇気を出して皆さんにお分かちしてみたい、と思ったのです。せめてこの問題と取り組むサワリのようなものを述べてみましょう。
まず必要なのは、「死に勝つ」という道があるならば、自分というものにできるどんな努力も惜しまない、という固い決意が必要です。愛する我が子を失った親は、もし何らかの方法でその子をよみがえらせることができるなら、どんなことにも耐えて求め続けることでしょう。かくいう私も、20歳のときの父の死が悲しく、それから50年、「不滅の命」について毎日のように考えてきました。
心の底を探ることから 
そこでまず、普段の生活の流れから果敢に抜け出して、自分を深く見つめ、心の奥底にあるものを探ることです。するとまず、次の二つのことが明らかになるでしょう。
一つは自分というものの徹底的孤独と無力です。たとえ今の生活がどんなにうまくいっていても、自分はこの世界と宇宙の中で、何の助けもなく、はだかで放置されている。泣き叫んでも、助けはどこからもやってこない、という絶対の孤独です。
 二つには、それにもかかわらず、自分はそういう孤独と死を恐れている。いや少なくも、愛する者との別れには耐えられない。あきらめきれるものではない、という思いです。長寿で大往生だ、といわれて逝くのも、どこかで「不条理」を感じる。本来あってはならないことが起こっている、と感じる。
やはり人間の死は、動物のそれとは大違いではないのか。人類も結局は生物の一種だから、寿命がきたらもうおしまいさ、というのもどこか自分をごまかしている気がするのです。
星空を眺めながら私が思うのは、自分の中には「永遠への強いあこがれ(思慕)」が確かにあることです。私たちの一生があまりにはかなく、中途半端なまま終わるなんて、矛盾じゃないか、という強い抵抗感があるのです。
ああ、日本のどこかで私を・・・・
さてそれでは以上のような私達の難題、永遠への思慕を持ちながら現実には絶えずはかなさに脅かされ、振り回されている、という大きな葛藤解決へのヒントになる言葉を紹介してみましょう。
 「愛は勝つ、死にも勝つ」、と色々に言われ、物語にも映画にもなっています。「人は愛に生きる、愛こそ永遠」と、歌われてもいます。
 多くの場合、それは男女の激しく燃える愛がテーマですが、そういう情熱的な抱擁の中で迎える死なら怖さも逃げてゆくかもしれません。
 ここで注目したいのは、そういう激しくて深い「受容(受け入れ合い)こそ、死人を生かすものだ、ということです。
ひとりぼっちで孤独で悲鳴をあげている人は、ひそかに血眼(ちまなこ)になって自分を受け入れてくれる人を探しているものです。 「ああ、日本のどこかで、私を待っている人がいる・・・」(百恵)。
その相手の愛の純度が高ければ高いほど、私達は千里の道も遠しとぜず、地のはてまでも出かけていくことでしょう。
「目覚めよ、と呼ぶ声あり」
 ここであの大作曲家J.S.バッハのカンタータの名品に触れましょう。その題名は、「目覚めよ、と呼ぶ声あり」というものです。そこにあなたを待ち続けている人がいる!
何に目覚めるのか。それは、天地世界も、我々人間も大きな愛をもって創られた「神の愛」にです。それを受けるなら、何物にも負けない生命を愉(たの)しむことができる、死人同然の人間も別人のように喜びに満ちた人としてよみがえってくる、とバッハは訴え続けたのです その愛をこの地上に運んできてくれたのが、「メサイア(救い主きりスト)といわれるお方だ、というわけです。
やみの中に陽光が
この人の登場は、いわば隠れていた太陽の輝きが私達の頭上に降り注がれ始めるようなものです。この何ともいえないぬくもり、私達を一人残らず照らし、傷だらけの「ストレイ・シープ(迷える子羊―漱石)をしっかり抱きしめてくれるお方に身をまかせよ、というのです。いわば、この人こそ、人類を襲う「死の洪水」をも飲み干すことのできる怪力の持ち主なのです。ヨーロッパ各地をおおうほどの建築や芸術のすべては、このことを証言しているのです。
失せし友の回復も
そこで結びです。この熱い愛に抱かれ、この生命に包まれて、私達はすべてに勝つ。死も滅びも消え失せていきます。これまでみじめな毛虫みたいだった自分たちも、次第に蝶のように変身していくでしょう。これまで悲しみのうちに見送ってきた多くの親しき人達も、この大きな愛のうちに包まれています。 大きな目覚めの中で、これまで過ごしてきた酔生夢死の人生も取り返せる。無為と回り道のようだったすべての過去も、この喜びのためであった、と自覚されるからです。

 最後に。紀元5世紀に、アウグスチヌスという大立者がいました。キリスト教世界が生んだ最大の人物という人もいます。この人が青年時代、最愛の友人を病気でなくし、七転八倒し、何日も泣き続け、こういうのです。あの友を奪い去った神様は、もう全世界を取り去ることもできるに違いない、と。しかしやがて彼の精神は大きな飛躍を遂げて、こういう意味のことを記すのです。神において親しき友を愛する者は、なんと幸いなことか。その人は愛する友をひとりも失うことはないのです」(鶴岡市本町3丁目 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)。
  


Posted by 矢沢牧師 at 13:14