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2014年04月15日

来たる4月20日は「復活祭」です

来たる20日は「復活祭」です

クリスマスはよく知られていますが、このイースターはまだなじみが少ないお祭りです。
でも死に勝利したキリストを祝うこの大祭は、とても深い深い意義があります。
それを以下に記しましょう。
そして20日(日)午前10時からの教会の礼拝に、こぞっておいでください。
勝利の人生を歩み始めようではありませんか!
荘内教会牧師・同保育園長
矢澤俊彦

復活祭がやってくる
「永遠の生命」訪れの喜びとは
矢澤俊彦

自然の循環からの解放
★ もうすぐ「復活祭」がやってきます。今年はきたる4月20日(日)から始まります。「今年は」というのは、このお祭りは、クリスマスと違って、毎年少しずつ移動するからです。即ち、「春分の日のあとに来る満月後の最初の日曜日」、と決められているからです。
★ イースターの到来は、万物よみがえるかのような春の時節と重なります。でもこれは「春がきた」という自然の祭とは違います。自然や季節は、結局同じことの繰り返し、春は夏となり、やがて秋がくるという堂々巡りを無限に反復するだけ。その循環の中に、私達は、いわば閉じ込められている。その循環から立ち上がることも、解放されることもありません。そしてその行き着く先は、「死」でありましょう。人間も自然の一部である、と考えられているからです。

自然のとりこから人間へ
★ しかし復活祭というのは、この無限的循環のとりことなっている私達を解放する。そこから立ち上らせて「人間にする」という、最高にうれしい一大フェスティバル、奴隷解放にも似た大祭なのです。それはいったいどういうことなのでしょうか?
 飛べない鳥の復活は傷つき倒れ、「飛べない鳥」のような私達。みなどこかで「つばさをください」、と叫んでいます。しかし幾ら待っても、どこからも助けはやってこないようなのです。
 そういう人間が本当によみがえり、翼を駆って天空を経巡ることが出来るとすれば、それはどういうときでしょうか。

受容のエネルギーが天から
★ 私が本欄でもよく力説するのは、「人は愛で生きる」、「受容」こそ万人を生かすもの、ということです。この自分をどこまでも深く受け入れ、とことん愛してくれる誰かに出会ってこそ、私たちはよみがえるはずです。
 しかしどうでしょう。それほど純粋で強い愛に巡り合うことは滅多にありません。自分自身もそういうものからははるかに遠い感じがします。そしてこの世で最良の愛でさえ、どこか不純で、ひ弱であり、変わりやすく永続しません。生身の人間に、そう多くを求めることは無理なのです。

天来の愛の襲来が
★ そういう苦しみにあえぐ人類に、復活祭がやってきます。それはまさに私達一人ひとりを、全く無条件に受け止め、受容してくれる、天から下ってくる神の大愛の訪れなのです。それは「死にも打ち勝った」キリストの、強く激しい愛の襲来です。これこそ私達を自然(=死)から立ち上がらせ、(初めて)生きた人間にする強烈無比のエネルギーの迫りなのです。これを受けないうちは、まだ深き眠りのうちに「夢うつつ」の人生を生きて?いるに過ぎない。これがイースターのメッセージの核心です。

十字架上の極悪人も
★ この愛の迫りを受けたのは、なんと十字架の上の強盗でした。きっとよほどの悪党だったのでしょう。キリストの隣の十字架にはりつけにされたのです。  人生も土壇場、これ以上追いつめられ、希望なき有様はないでしょう。
 さてその状況の中で、強盗は隣の男に目をやりながら、それまで感じたこともない清らかで、なんとも暖かい力が自分に向かってくるのを感じた。
その不思議な強いエネルギーのために、彼の心は激しくゆすぶられ、ついに「オレは何たる悪党だったのか。できることならゆるしてくださらんか」、と叫んだのです。「わかったぞ、きょうのうちに、お前はわしと一緒にパラダイスにおるぞ」の答。心はいつの間にかキリストのように清浄になっていたのです。強盗はこのとき、初めて人間として復活を遂げたのでしょう。すごい話じゃありませんか!

卵の殻から出ないと
★ イースターには色とりどりのたまごが用いられます。その意味の一つは・・・私達の命は殻(から)の中にあること。そこは暗く狭く不自由。そしていつまでもいると、そこが墓場になってしまうことです。何としても「飛び出そう」、と必死にならねばなりません。やがて、外から親鳥のつつく音が聞こえてくる。その時を逃さず、「それっ」、と飛び出さねばなりません。するとまあなんと想像も出来なかったような広くさわやかな世界が広がっているではありませんか!
イースターの呼びかけはこれに似ています。固い殻の中に閉じこもって、そこが一番安全だ、と決め込んでいる行き方。これほど危険なことはありません。大いなる世界を、ついに知ることもなく、命の終わりがきてしまうからです。

閉じこもる大男、救いは外から
★ そんな大男がいました。素晴らしい大庭を持っていたのに、旅から帰ると、遊んでいた多くの子供たちを追い出し、高い壁をめぐらせて、誰も入れないようにしたのです。が、たちまち不思議なことが起こりました。春だったはずの大庭は冬将軍がいすわり、町は夏や秋になっても寒々とした氷がはりつめ、生きとし生けるものは姿を消してしまったのです。
 1年以上もたったころ、男はさすがに自分の非に気づく。でも自分で壁を壊す勇気はないのです。
「救いは外から」訪れます。ある日(塀の下をくぐってでしょう)侵入した子供らの力によって、やっと自分の壁(殻)から脱出できた、という童話があります(オスカー・ワイルド)。木々のすべての小枝にすわる子らがいっせいに手を振る姿に、大男の涙は止まらなかったのです。

永遠と死の狭間での不条理
★ 復活祭には二つの解放があります。ひとつは、こういう生きながら死んでいる私達を生き生き人生によみがえらせること。もうひとつは、文字通り「死に勝つ」ことです。後者について少し考えてみましょう。
その天来の力と愛のエネルギーは、私達を支配しているような「死の力」からも自由にし、「永遠の生命」にまで導く、というのです。
 人間は動物とは断然違って「死を自覚する」生きものです。また木石(ぼくせき)にあらざる私達は、いつも人間仲間と思いを交わし、願いや夢をもって生きています。そして心の底には、「永遠への思慕」というものを持っているのです。
でもその人生がかくもはかなく、中途半端で未完成、これを私は大きな「不条理」と感じます。人生という括弧の前に大きなマイナス記号がある、とはよく使われてきたたとえです。何だか死刑執行を猶予されてるようなオドオド人生。時にこんな命をつくったヤツは誰だ、とのろいたくもなります。

親は愛する子を滅ぼさず
★ しかしイースターは、その巨大なるマイナスを一挙に取り去ってくれる非常なる愛と力の訪れなのです。卵の殻の中で悶々としている人々、十字架上の極悪人、大庭のある家で涙する大男・・・、彼らに思いもかけなかった光が侵入してくる。一瞬にして私達の日々に祝福が訪れるのです。
これが古来「永遠の生命」と呼ばれてきたものでありましょう。
★ 親の愛を考えてみましょう。わが子への思いは海よりも深し。ブランコに乗れたといって喜び、風邪をひいたといって心配します。時におしおきをしても、見放すことはありません。ましてわが子の滅びを見過ごす親はいません。
 そういう「天の父」がキリストを墓からよみがえらせ、そのほとばしる命を、私達すべてに与えてくださる。これが復活祭です。この喜びに支えられてこそ、子育てに励むこともできるはずです。

大震災犠牲者にも
 私はあの大震災の犠牲者を思います。戦争による犠牲者を思います。そして天の父の大愛が、彼ら一人ひとりをよみがえらせ、天国に住まいを与えられていることを思うのです。この永遠の生命が人類に深まりゆく今年のイースターでありますように。
 「蝶(ちょう)一匹飛ぶにも、全宇宙が必要なのです(クローデル)。」
 なお4月20日の復活祭には、全国どこの教会でも、午前10時前後からお祝いの集まりがあります。どなたでもおでかけください(鶴岡市本町三丁目 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)。  


Posted by 矢沢牧師 at 09:38