2013年03月26日

2013 復活祭 -上-

愛の神は子らを滅ぼさず 
―今年の復活祭は3月31日ー 

人は死んだらどうなるのか


★私達人間は死んだらどうなるのでしょう?そんなこと考えたって仕方ない、という人がいます。つらいから何かでまぎらわして、考えないようにしている、という人もいます。宗教家の中にも困惑して、誠実そうに、まだ自分は先に行ってないので・・と、口をつぐむ人がいます。

★人は死んだら「ふるさとの山に帰る」のだ、とは広く信じられてきた信仰です。月山のような大きな山のふところに抱かれて眠るというのです。また「草葉の陰」から私達をひそかに見守る、とも言われます。

★また近年は「風」になって私達の周囲を吹き渡る、という歌が共感を集めています。あの歌詞で私がいいと思うのは、愛する人がお墓なんかに眠ってはいない、というメッセージです。メロディも美しくある種の慰めが感じられますが、風などの自然と化すというのは、とても半端なものを感じます。

★確かに死というものは大問題です。皆さんは、あのイスラム教徒が毎日5回も決められた時に、一定のやり方によって礼拝を捧げている姿をテレビなどで御覧になるでしょう。あれは何のためかといえば、ああしてアラーの神様との約束を守って、「天国」に入りたいからなのです。禅の修業僧の厳しい座禅も私達には親しいのですが、イスラムの場合は、あれだけの民衆が・・・王様も乞食も一つになって日々懸命に行じていることに、彼らのすさまじいほどの天国への憧れ」のようなものを私は感じます。

★私達が死んだらどうなるのか、これは確かに私達の「最大の問題」でしょう。この問題を避けて、目先のことに追われる愚かさをじっくり考えてみましょう。

★人生は実に短くはかないもの、たとえ生きてる時に何があろうと、それがどんなに栄光に輝いたものであっても、たちまち霧のように消えてゆく。勢いある青草も、幾日もたたないうちにしぼんで枯れる。たとえ全世界を所有し得たとしても、明日の命の保障がないとすれば、そのための営々たる努力も空しいものではないのでしょうか。

★それでは、人は死んだらどうなるのでしょう。私の信じるところを述べましょう。でも問題が問題だけに、長い間にわたる無数の人の求道と苦しみに満ちた人生の闘いの末に与えられたものです。

★結論を端的に言いましょう。私たちは、キリストのようによみがえって、神様のもとでの新たな生活を楽しむのです。これがイ-スターの喜びです。私達のこの肉体は滅び失せ、煙となり土と化しますが、その後、造物主なる神様から新しい体と心を与えられる。そしてお互いが「ああお前か」、と分かり合う。この地上のそれぞれの個性や性格や苦労や頑張り、また無念や悲しみの思いなど、すべてが生かされ清められた形での新たな人(天使的存在)にされる。生き返ったキリストの手には、打たれたくぎの跡まであった、といわれます。

★そんなおとぎ話のようなことを信じているのか、とあきれる人もいるかもしれません。でも、これだけのことを大真面目で大の大人たちが信じ、人にも伝えてきたのが世界のキリスト教徒です。

★私は先日、白甕社の春の展覧会に行きましたが、「復活」ということを連想させる幾つかの作品に心惹かれました。おそらくそういう事柄を深く考えざるを得ない、今の時代と社会があるに違いありません。
卒園式も終わった今、私は復活祭を目前にしながら、次のことをしきりに考えています。
人間の親というものは、心を尽くし力いっぱい我が子を大事にし、その一人ひとりをはぐくみ育てるものです。小さなケガや事故や病気にも、とても注意深くします。また子供のすべての動作がなんともかわいく、話もこんなに出来るようになった、ブランコにも乗れるようになった、などと大喜びするのが親というものです。

★ところで私達を造られた神様は、天地の大親です。その愛で世界を造られ、その愛を分かち合おうとして人間をも造られたのです。その最高の親である神様が、かわいくて仕方がない人間を、幾ら人間が悪くても、半端で放置したり、滅びるにまかせたりするはずがないではありませんか。

★たとえ子である私達がどんな大罪を犯して、どこかへ逃げてしまったとしても、それを赦し、見つけるまで探そうとする、傷だらけの我が子の状態を知りながら放っておくはずはありません。  もし周囲に迷惑をかけたのなら、どんなに苦しくても、自分が「身代わり」になって、それを償おうとするでしょう。これこそキリストの十字架の意味することです。

★愛はすべてに勝利します。この力ある愛の支配を前提にしない限り、この世の生活も成り立たない。死と滅びという暴君が支配しているんでは、まともに生きてはいけません。私達も死と墓を押しのけて復活するのです。作り話のようにも聞こえる「復活祭」こそ、人間らしい人生と、まことの「希望」ある生き方の大前提ではないでしょうか?



Posted by 矢沢牧師 at 17:34