2013年03月26日

2013 復活祭 -中-

復活祭は妄想にあらず
―泣くな、人は墓で朽ち行かず-


今年は3月31日にやってくる復活祭。私たちの復活のさまは、ときに素朴にも、水中のヤゴがトンボになって広い天空を自由に飛び回るようなもの、ともいわれます。

科学至上主義の浸透

★しかしこの復活を信じ受け入れるのは、現代人一般にはとても困難です。やはりおとぎ話で、そんな馬鹿馬鹿しいことが、といって相手にしないし、興味関心すら持たない人が多い。

★それはなぜかといえば、近代人の意識や価値観が徹底して「科学」というものに浸透されているからです。確かに「死人の復活」は科学的に証明できません。でも証明できないものは存在しないかというと、そんなことはない。たとえば、愛や憎しみや不安・・・これらがどんなに大きなエネルギーを持っているか、これは日々経験が教えてくれています。

★そのように、復活を信じた人たちには強力な愛のエネルギーが注がれ、恐れを知らぬ勇気の人に変貌していった。自分の弱さに泣かされていたペテロという弟子も、先生と同じ十字架では相済まぬ、といって、自ら「逆さ十字架」にかけられた、などと言い伝えられています。   

欧州文化は集団妄想の結果か?


★ところで科学的思考をすべてと思う人々は、キリストがよみがえったなんて・・死体を盗んでおいたのでは・・幻影を見たのでは・・に始まり、あらゆる批判と疑問を投げつけてきました。中でも、社会的精神的弱者や奴隷的人間の「願望の投影」だ、というのはその代表的なものです。言わば、復活がほしいという人たちのでっちあげた「集団妄想」の類だ、というのです。しかし・・・。

★そんな大きな妄想があるものだろうか、と私はたとえばヨーロッパの文化を見て思うのです。多くの国のどこへ行っても、町全体が美術館だと感じるほどのスケールで広がっている大聖堂、修道院、絵画や工芸品などの数々。あれはみなこの「復活」なくしては出来なかったものです。そもそも教会というものは、キリストの復活が前提となって成立したものです。
するとこういうことになります。復活否定者は、そういう欧州芸術のすべては、大きな錯覚、いわば巨大なる「集団的妄想」の中にいる、ということになります。
しかし・・・・、そういう錯覚に、人類はかくも長くとりこにされるものでしょうか?

無数の人たちを長くはだませない


★よく言われるように、わずかの人を長くだますことはできる。また多くの人たちを短期間夢中にさせることも可能である。たとえばあのヒトラーや他の独裁者などのように。でもこの2千年もの間、これほど多数の(今でも20数億という)人々が、虚偽と主観的思い込みの犠牲となり続けるなんてことがあるものでしょうか?もしそうなら、彼らはなんと憐れむべき可哀想な人々、生涯をうそ偽りのために棒に振ってしまってた人々・・それが復活信者なのだろうか、と。

★しかしそういう「みじめなる」人々が、嬉々として、たとえば放置されていたハンセン病者などあらゆる弱者に近づき、アフリカの黒人奴隷を助け、他の様々な社会改良に手をつける一方で、あの壮麗なる美術文化の花を開かせ続けている・・・。宗教をすぐ暴力や戦争を思うのは、私はあまりに一面的かつ断片的印象だと感じます。さてこういう卓越した復活信仰の果実を、現代の科学至上主義者はどう解釈するのでしょう?科学ですべてを割り切ろうとする行き方こそ、憐れむべき妄想狂者かもしれないのです。



Posted by 矢沢牧師 at 17:38