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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2012年05月04日

復活祭は妄想にあらず。

                      復活祭は妄想にあらず
                     泣くな、人は墓で朽ち行かず
                          矢沢 俊彦

   
                      人はただ朽ちゆくのか
★ 日々多くの友人がこの世を去り行く・・・またしばしば随分若き友も送らねばならないわびしさの中で、私はしきりに考える。人ははたして、やがて墓で朽ち行くほかないのであろうか?骨も砕かれ、土や水となり、人はすべて消え行く定めをどうすることもできないのであろうか?これは時として誰にも激しく襲う深い不安です。その時、やれ人は風になるだの、星になるだのと歌ったり、それで幼な子からの問いを回避したりしますが、それは何の慰めにもなりません。
★ この深刻な問いに真正面から答えようとしてきたのがイースター(復活祭)という大祭です。今年は4月8日に始まり、その後7週間、世界の多くの人々が思い続けるのは、十字架につけられたキリストが墓からよみがえったこと、そしてその命の息を吹きかけられると、生ける屍みたいだった私達も、瞬時に生き返って別人のようになり、やがて「永遠のいのち」を与えられる、そのさまは、たとえて言えば、水中のヤゴがトンボになって広い天空を自由に飛び回るようなもの、というわけです。
             
                       科学至上主義の浸透     
★ しかしこの「復活」を信じ受け入れるのは、現代人一般にはとても困難です。そんな馬鹿馬鹿しいことが、といって相手にしないし、興味関心すら持たない人が多い。
それはなぜかといえば、近代人の意識や価値観が徹底して「科学」というものに浸透されているからです。確かに「死人の復活」は科学的に証明できません。でも証明できないものは存在しないかというと、そんなことはない。たとえば、愛や憎しみや不安・・・これらがどんなに大きなエネルギーを持っているか、これは日々経験が教えてくれています。
★ そのように、復活を信じた人たちには強力な愛のエネルギーが注がれ、恐れを知らぬ勇気の人に変貌していった。自分の弱さに泣かされていたペテロという弟子も、先生と同じ十字架では相済まぬ、といって、自ら「逆さ十字架」にかけられた、などと言い伝えられています。その後も歴史で学ぶように、多くの激しい試練や迫害や殉教にうち勝つ大きな力の源が、復活による永遠の生命の希望にあったのです。
         
                     欧州文化は集団妄想の結果か?
★ ところで科学的思考をすべてと思う人々は、これらを疑惑の目でみます。キリストがよみがえったなんて・・死体を盗んでおいたのでは・・幻影を見たのでは・・に始まり、あらゆる批判と疑問を投げつけてきました。中でも、社会的精神的弱者や奴隷的人間の「願望の投影」だ、というのはその代表的なものです。言わば、復活がほしいという人たちのでっちあげた「集団妄想」の類だ、というのです。しかし・・・。
★ そんな大きな妄想があるものだろうか、と私はたとえばヨーロッパの文化を見て思うのです。多くの国のどこへ行っても、町全体が美術館だと感じるほどのスケールであるのに、あのすべては巨大なる「集団妄想」の結果なのだろうか?そういうものに、人類はかくも長くとりこにされるものでしょうか?
        
                     無数の人たちを長くはだませない
★ よく言われるように、わずかの人を長くだますことはできる。また多くの人たちを短期間夢中にさせることも可能である。たとえばあのヒトラーや他の独裁者などのように。でもこの2千年もの間、これほど多数の(今でも20数億という)人々が、虚偽と主観的思い込みの犠牲となり続けるなんてことがあるものでしょうか?もしそうなら、彼らはなんと憐れむべき可哀想な人々、生涯をうそ偽りのために全く棒に振ってしまっている精神を病む者の大群・・それが復活信者なのだろうか、と。
★ しかしそういう「みじめなる?」人々が、嬉々として、たとえば放置されていたハンセン病者などあらゆる弱者に近づき、アフリカの黒人奴隷を助け、他の様々な社会改良に手をつける一方で、あの壮麗なる美術文化の花を開かせ続けている・・・。宗教をすぐ暴力や戦争を思うのは、あまりに一面的かつ断片的印象にしか過ぎません。さてこういう卓越した復活信仰の果実を、現代の科学至上主義者はどう解釈するのでしょうか?科学ですべてを割り切ろうとする行き方こそ、憐れむべき妄想狂者かもしれないのです。
            
                       火あればこそ煙朦々たり
★ 事実は・・「火のないところに煙は立たず」。この2千年の歴史を通じて、実に朦々たる煙が立ちこめ、私達は目もあけておれないほどです。確かに猛烈な火元があるのです!その火に近づくほど、人は生き生きとした「炎の人」とされていく。これは実証的事実です。その火元の実体は証明できませんが・・・。
こうなってくると、私達もそこに近づきたくなってきませんか?あるいはいっそ「騙されて」みたくもなりませんか。もしそんな喜びの人生が本当に開けるならば、です。
            
                       愛する人とは再会できる!
★ 事実、復活という猛火に包まれた人々はみな、その「聖火」を内に燃えたぎらす別人のように変貌しました。それまではいつも死を恐れ、世間や人の眼にオドオドし、病気や災いにビクビクしてばかりいたのに・・・。「自分は愛されている」、「自分は墓に朽ち果てることはないのだ」という喜ばしい確信が強くなっていきます。      
★ 愛する者との別離は、人生最大の悲しみでしょう。愛が純粋で強ければ強いほど、悲嘆は我々をどん底につき落とします。それをどうするすべもありません。この会者定離という岩よりも固い定めを打ち破るのもイースターです。「泣くな、お前は愛する人と必ず再会できるのだ」、が新たな理(ことわり)となります。これまで流されたすべての涙は、そうしてぬぐわれるのです!
            
                       痛ましい我らの近視眼
★ ここまできて、私どもは初めて、安心して人を愛せるのではないでしょうか?子育てや保育や仕事の前提にも、「愛の永続性」の確立が必要なのです。
 これは人生最大の課題ですが、もうノンビリしてはおれません。とかく自分の身にふりかかってきてから大あわてするお互いなのですが、それでは間にあいません。それは私どもが、全く痛ましいほど「近視眼的に」生きているからでしょう。その視野狭窄が自覚されないゆえに、これほど間近かに迫ってきている大きな災いに備えようともしない。今世間では「防災対策」に大騒ぎしていますが、それよりはるかに騒がねばならないのは、百%確実に襲ってくる死に勝つ生命の探求ではないでしょうか。
            
                     愛ある天父は子を滅ぼさない      
★ でも世の人々よ、大いに安心せよ」と復活祭は呼びかけます。世界は造物主の愛で満ちています。きょう1日生きているだけでも、もうどれだけの恩恵を受けていることでしょう。私どもはわずかの空気や水滴だってつくれはしない無力そのものの生き物です。でもこうして無償で与えられている途方もなく有力な無数の恵みは、どの一人も深く「愛されている、愛される値打ちがある」ことの誤りなき証拠でなくて何でしょう。そもそもこの世界そのものが、私達の想像をはるかに超えた愛と好意の巨大エネルギーによって支えられているのです。そういう中でこそ、私達のいのちも一瞬一瞬生かされているのです。
★ 人間の親の愛も、海より深く山より高いものです。しかしそれをもう絶対といっていい、それをはるかに凌駕する強靭な好意や善意が、ひとり一人に集中して押し寄せてきているのです!
               
                      復活祭の猛火が燃えている
★ 以上を踏まえると、我が子の滅びや消滅に手を貸す親がいないように、「天の父」は哀れな地上の子らが死の力に連れ去られるままにされるはずはない。必ず善処してくださるのです。来世での新生命は風や星になるのではない。魂や霊だけがゆらめくのでもない。ほかの動物に変わるのでもない。この地上の姿や個性や意識が清められて再生させられるに違いありません。
★ イースター(墓からのよみがえり)の喜びの火は、猛火となって人々に広がっていった。死に勝った人々は、もはやこの世に恐れるものは何もなかったからです。親しい方々がどんどん去り行く中で、私は読者の皆さんに、こういう人生の可能性が開けていることをお知らせしたく、一筆させていただきました。
             
                   永遠の生命が燃えているケルン大聖堂
★ ドイツにあるケルン大聖堂は、ゴシック建築の代表として有名です。157メートルの双塔の尖塔からは、ひたすら天に向かう憧れの大合唱が聞こえてきます。驚くことに、この建築が着手されたのは1248年、竣工は1880年だというのです。この間実に632年が経過している。これはもう「永遠者」相手の大事業です。これに関わり支えた無数の人々の心中に、永遠的な生命が燃えていた。その喜びの歓声、天への叫び、遠い世代への切なる呼びかけ・・などが聞こえてきます。
 でも最後に注意してください。かように、ヨーロッパ各地の豊かな文化に、目を奪われていてはいけません。実はそれらは燃える炎から飛び散った「火の粉」のようなもの、本体から出た「派生物」に過ぎないことに気づかねばならないのです!。
★ この地にもようやく春が来たり、桜も満開になります。でもたちまちそれは散り行き、夏が来ます。この無限的循環の繰り返しに、救いはありません。天からくだり、私達を燃やしてくれる炎に触れてこそ、「永遠に爛漫たる春」を楽しむことができるのです。
(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)

 

  


Posted by 矢沢牧師 at 15:01

2012年05月04日

人様に役立ちたい/利他心について

                     人様に役立ちたい人間
                     悶々たる人の転換の道は
                         矢澤 俊彦

                 生き生き奉仕するボランティアたち
★ このたびの大震災後を見ていて私が導かれるのは、少し大げさに言えば、「人間ってそう捨てたものじゃない」、「今の日本人にも、他人への優しさや思いやりがあふれるほどあるじゃないか」という発見?です。
★ ことに外国人も含めて被災地に駆けつけている様々な形のボランティアの働きには目を見張らせられます。
その人々がいかに生き生きとして、目立たない清掃や瓦礫の撤去作業などを根気よく続けているか、あるいは被災地の子らを、全国各地が迎え入れ激励してくれている。そういう様子はもう文句なしに感動的です。
そしてみんなから異口同音に聞かされるのは、「いくらかでもお役に立てて本当にうれしい」という美しい言葉です。これがうそ偽りでないことは、彼らの表情や態度ですぐ分かります。

                     人様のお役に立ちたい!
★ そこで私も内心を振り返り、自分に問うてみるのです。いったいお前はどういうときに一番幸せや充実した生きがいを感じるのか、と。
するとやはり同様に、人様から迎えられ用いられ、感謝されることではないか。こんな自分だけど、誰かの幸せのために役立っていること、これではないか、と思われてなりません。
★ 身近な例ですが、たとえば、八百屋さんや魚やさんでも、「こないだのあれ、とってもおいしかったよ」と言われるのがうれしくて、とよく聞かされます。多分これはもうどんな商売でもそうでしょう。

                     人を殺す社会的無用感
★ 逆に、こうして生きているけれど、自分は誰のためにも役立ってはいない、何だか歓迎も感謝もされず、むしろやっかい者邪魔者扱いされているとすれば・・・・人間的誇りはうち砕かれ、悲しみが押し寄せてきます・・。
★ そうなると段々何だか死んでしまっても惜しくないような気分にもなってくるのが人間です。自分がこのままこの世から消えたって、ほとんど誰も深くは悲しんでくれまい。むしろ厄介者がいなくなって喜ばれるかもしれない。人の気持というものはどうにもなりませんから。
★そこで成り立つ公式は・・・「社会的有用感」は人間をして人間らしくするけれど、「社会的無用感」は、人をして「生けるしかばね」にしてしまう。  

                     高貴なる名門の出なる人間
★ そうです。人は自分のためだけに生きて「生きがい」を感じるのではない。驚くなかれ、他者のために一身を捧げてこそ、最大の幸せが得られるもののようなのです!さてさて人間とはなんと高貴で崇高な存在であることか!
★ とかく利己的で自己中でわがままでどうしようもない醜さにふり回されているような我ら人間。 でももしかしたら、この「利他心」の方が、その本質かもしれないのです!
大震災は、少なくもこの偉大な事実に気づかせてくれたのです。

                     利他心を発揮しにくい文明社会
★ それだけに、現代の社会が大変悲劇的だと思うのは、そういう「世のため人のために役立ちたい」という、とうとい利他心を、存分に発動し発揮する機会や相手やニーズを見出すのがとても困難だという傾向です。
★考えてみてください、どれほど多くの人たちが心の中でつぶやいていること
か。「ああ、私も何かで人様に喜んでもらいたいものだが・・・」。

                        夫婦も面白くない
★ たとえ仕事があったり家族がいたりしても、普通は余り深い感謝の言葉は交わされません(ことに日本では)。働いたり家事をするのは当たり前と互いに思っている。たとえ定年まで懸命に勤め上げてもです。そこで夫も妻もつまらない思いでとかく長い間「悶々」としているのです。

                     有用性で人の価値をみる社会
★ こういう不幸を加速させている社会的背景もあります。たとえば、互いをライバルと見勝ちな競争的社会、個々人の能力や働きなど人間の「有用性」重視の傾向、さらにこの日本が一応経済発展を終えすべてが整然と管理され、何も問題がないかに見えることです。本当は苦痛だらけの阿鼻叫喚の世の中なのに。それを見る眼も閉ざされているのです。
              
                        犯罪の裏に孤独あり
★ 事実は、多くがさびしさや無用感で、人間らしさを奪われています。スポットライトを当てられる人はほんの一握り、ほとんどはねたみや羨望の眼で、指を加えて見ているだけです。
★ 誰からも求められす、役割も期待されず、注意も感謝もされない。居場所がないのも何とつらいことか。
★ 孤独は余りに苦しいので、そこから脱出するために、人は何でもしそうです。 世間を驚かすような犯罪者を捕らえてみれば、何のことはない、親しい友が一人もいなかったから、なんてことはよくありますね。

                        矛盾の中にいる人間
★ これまでをまとめれば、私達は、人様に役立ちたいという熱い思いをもつ、いわば名門の出である。それなのに普段の地味な生活では、それを生かすことができないために、人間的生活が脅かされている人が実に多いということ。これが現代の不幸な一面なのです。

                     天地にあふれるメッセージあり
★ 以上この時代の問題を長々と記し恐縮でした。さあ、それではどうしたらいいか。以下に私の考える解決篇を述べてみましょう。
★ まず肝心なことは、今どんなにつらくても、人生をあきらめてはいけない、投げ捨ててはいけないのです。どうしてこのまま朽ち果てていいでしょうか!
★ よく見れば、天地は私達をいやし蘇生させる数多くのメッセージで満ちて
います。
犬のふぐりのような雑草、高山に咲く花々、飛んできた一羽のすずめ、春の小川やそよ風、ふとラジオから聞こえてきたなつかしのメロディー・・それらが私達にささやいてきます。
「さあ、涙をおふき、私達がいるよ」、と出迎えてくれています。
★ さらに幼な子の歓声、テレビに映る女性の優しい笑顔、お年寄りの知恵あ
ることば、懸命に立ち働く医師の姿・・そしてたぶん最善なのは神仏に見出されること。
我ら無数の好意善意の只中にあり
★ こんなに小さく無力で、おまけに醜い自分。わずかの空気も水一滴も作
れないのに、おびただしい好意と善意の只中にいるのに・・・・自分はこれまでそれに背を向けてきたのでは?
★ この世界がまるで「敵意」で満ちているかのように恐れてきた。でもこれ
は、もしかしたら大いなる錯覚かも。・・そうだ、とんでもない勘違いに相違なかろう。もし自分がこの世界によって受容されているとすれば・・・これは大変なことです!

                   心中のマグマが爆発して
★ さあこうなったら、すぐ立ちあがり進み出て、この誤りを謝罪し、天地と和解しなければ、という衝動に駆られます。
★ やがて引き裂かれ血だらけだった自分の内面は、大きな大きないやしの力でいっぱいになるでしょう。すると統一された自我のパワーは以前と比べようもないほど力強いものになっていきます。長く抑圧されてきた内部のマグマが爆発するからです。心の空はなんとすっきり晴れわたることでしょう。すると不思議なことに、周囲の苦しみにあえぐ人たちの姿が見えてきます。この国全域も、見えざる津波に襲われ破壊されている様子もはっきりしてくるのです。それまでは自分の中に同じ葛藤があったために、それが隠されていた。言わば「心眼が開く」のです。
★ すると湧き出してくるのは、すべての事物や人々への深き感謝の念です。何も出来なくても、これだけで大きなお返し。そして出きることならさらに、何かの形で「誰かのお役に立ちたい」、との思いも生まれてきます。

                   利他の本質に生き始める
★ 他のために自分を役立てることができるのだ!最初にお話したように、これほど人を生かす思いはありません。それは人間というものが生来「利他的」につくられているからです。 どの一人も、こういう高貴にして、美しい精神を宿している。これにはこの世の花もどうやら顔負けです。これをなんとしても開花させねば。
★ こうして、社会的無用感によって殺された人々を再生させる社会的有用感が生きて働き始めます。まさに雪に埋もれていた木々に、ついに喜びの春がやってくるように。
★ 長く続いた閉塞状態ですっかり疲弊している平成の日本。そこへ大震災が起こり、ますます元気と希望をなくしています。
★ でもこのたびボランティアたちが教えてくれた人間復活の道。これは限りなく尊いものです。さあ私達も嘆くのはこれくらいにして・・今すぐにでも飛び起きて、利他の道を全力で走り出そうではありませんか!  (鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)
  


Posted by 矢沢牧師 at 14:50

2012年05月04日

教会学校(子どもの教会)のメリット5つ

                        受容こそ死人を生かす
                       閉塞日本人の復活の道は?
                           矢沢 俊彦


                       「入れてーいいよ」         
★ 何人かの幼な子が遊んでいる。そこへ新たに2、3の子がやってきて呼びかけます、「入れてー」と。するとまず必ずといっていいほど、「いいよ」との明るい返事です。なんて彼らの心は広いんだ。相手を選ばず受け入れる、あの寛容さはどうだ。誰しも心動かされるこの光景ですが、子らはその同じ寛大さをもって、私達大人も仲間に入れてくれる。「うれしいな、さあ一緒に遊ぼう」と言わんばかりに。
             
                  この「受容」こそ自分は求めてきた
★ しかも彼らは大人のように何も問わない。無条件で「いいよ」と笑顔で迎えてくれるのです。
★ さてその時、私達がふと思うことは・・・自分がもうずっと長く求めてきたのはこういう経験ではなかったか、ということ。何も聞かれずに受け入れられること。そうしてくれる相手と、その心の広さ優しさに包まれたい。この感動的体験ではなかったか、と。

                   守られているという安心感こそ
★ そしてまた考えるのは、いったいどうして幼な子たちには、ああいう豊かな包容力があるのか、ということです。私が今思うのは、彼らには「自分が守られ、保護(庇護)されている」という深い安心感があるからではないか、と。
その証拠に、もし母親なり保育士さんの姿が見えなくなれば、ただちに遊ぶどころではなくなり、泣き始め、たちまちパニックになるからです。守護されている安らぎこそが、あの魅力的行動の推進力になっている、と考えられるのです。
              
                    最大事を喪失した大人たち
★ ところが大人になった私達は、すっかり異人種に変貌、あの大事な「庇護感」を失い、大変不幸な事態になってしまったのです。まず自分で自分の身を保護し維持し、あらゆる危険から守らねば・・・。さらにそのために自分を主張し、学習し働き、厳しい競争の中で自分の価値を周囲に示さねばならない。  こうした多くの課題や圧迫のために、大人たちはとかくいつも緊張し、追いつめられ、かつての遊び心を忘れ、重荷に苦しめられています。
その内面は孤独感や疎外感、社会的無用感などに脅かされ、明るさや元気は遠のき、精神は飢え渇き、悶々とした日々が延々と続くのです。
★ もしも幼な子のように深く自分を受容してくれる仲間がいるとしたら、私達はどんなにいやされ、満ちたり、生きがいを感じることでしょうか。我が子や孫がかわいくて仕方ないわけも容易に納得がいくゆえんです。
この大事な「気づき」から、さらに深く徹底したいやしへと進み、ついにこの悪に満ちた世界全体をもこの腕で抱擁できるまで力を得るなら・・・との大いなる願いも起こってきます。

                     受容を血眼で捜す現代人
★ でも日常生活の中で与えられる癒しの多くは断片的で、そう長くは続きません。 そこで私達はどういうことになるか。それは絶えず巷をさ迷い歩いたり、世界を放浪しながら、自分をこのままで受け入れてくれる「受容体験」を血眼で捜し求めることになります。
★ 夕方になると、何となくさびしさわびしさにさいなまれる。すると人恋しさで、足は自然に酒場に向かう。またしばらくでも「憂さ晴らし」になりそうなさまざまなものに吸い寄せられていく。また騒がしいほどのあらゆる音楽が流れ、気晴らしになる色々な娯楽やスポーツや賭け事などに欠けることがないのです。また老いも若きも夢や希望を失い、向上心や労働意欲も減退しています。さらに驚くような暴力的犯罪者は、たいてい孤独なまま放置されていたことが明らかにされています。

                       絆が薄すぎる社会
★ 結婚生活なるものも、本来は、互いを掛け値なしに肯定し合うことから出発したはずなのに、ほどなくしてどっちにもある心の空洞のために、「限りなく奪い合う」(有島武郎)無残な狼同士の関係になり勝ち。相手の浮気に気づいたら、それまでの歩みを深く振り返って、「相手に感謝する」(美輪明宏の言葉)ほどの本物の愛は、めったに見られないのが現実でしょう。

                      内なる空虚と魂の分裂
★ 私達は戦後の長い歩みの果てに、内なる空虚や魂の分裂、ニヒリズムや隠されていた絶望を、いよいよ顕わにせざるを得なくなってきています。いよいよ「自分の穴の中」に閉じこもり、他人との関わりを避け、 うずくまって声も出さず動くこともしない。
それは重ねてきた放浪生活で、もう疲れきり、無力感のとりこになっているからです。社会や不幸な人のことも気になるけれど、歩み出していく元気も剥ぎ取られ、みな押し黙って顔も見合わせず、話も議論も、まして笑い合うさざめきも聞こえない、そうじゃありませんか?不気味な「沈黙の日本」になってしまっています。
                  
                     経済発展の代償余りに大なり
★ どうやら私達は経済成長のために、皮肉にも想定外に大きな代償を払ってしまったようです。今回の津波や原発騒ぎがなかったとしても、この社会の深層では、見えざる震災や津波が何十年も破壊的活動を繰り返してきたように私は感じます。その結果、お互いの心は長い葛藤でエネルギーを使い果たし、燃え尽きそう。視力も弱り、この先のビジョンも見えにくいのです。これが現代日本を覆う「閉塞」の実体だと私には思われます。
 
                        暗黒をまず直視せよ
★ 読者の皆さんの中には、これまでの分析は暗すぎる。もっと明るい面、いい点が幾らでもあるじゃないか、と思う方がいるかと思います。私もそれを否定しません。でもたじろがず直面すべき暗黒がある、ともお考えになりませんか?それを転じて希望の国にしたい、というのが私の本旨ですよ。

                       受容の力は死にも勝つ
★ さあそれではどうしたらいいのか?私見では、本稿前半に記した「受容」ということを徹底して考えてみたい。本当に受け入れてくれる人がいるなら、人間というものは世界のはてまでも勇んで出かけていくものです。自分の全財産だって捧げてしまうし、どんな苦労や努力も惜しまないのです。
★ 深い「受容」というものに出会えたなら、もう人は何物も恐れなくなります。もう全く別人のようになり、出会うすべての人に好意を持ち、事物を愛し、世界は遊びきれない一大レジャーランドに変貌していく。
そうした中で、恐れていた死の脅かしさえどこかへ消えていく。自分が大いなる愛によって庇護され守られている、と確信させられるからです。

                       飢えた狼との自覚から
★ でも再び、そのためには・・?それにはまず、自分が「飢えた狼」であったこと、惨めな「餓鬼」であり、「裸の王様」であることに気づいて泣き悲しむことから始まると思うのです(口はばったい言い方でおゆるしを)。
 
                       今与えられる受容体験
★ すると、こんな自分を生かし支えてきてくれた身近かな人々への感謝が湧き出してきます。幼ないころからお世話になりながら、もはやお礼のひとことも伝えられない無数の人たちの姿が見えてきます。自分を生かすために身代わりになった人たち。戦争犠牲者はじめ、沢山の動植物・・。

                       呼びかける幼子と世界
★ かわいい幼な子すら、見よ、あんなにして広い心で誰彼なく受け入れ、人類のあるべき姿を毎日教えてくれているではありませんか。恥ずかしくて、とても彼らの前には立てない自分を感じます。
★ さらにこの世界は幾多の災いにあふれているけれども、それより全く比べようもないほど、おびただしい「好意と善意」が、こんな私にも押し寄せてきていることに注目しなくてはなりません。
無力で卑小な私たちは、実際わずかの水や空気すら作れない。でも太陽が頭上に輝かぬ日は、これまでの生涯で1日だってなかったのです!天からのメッセージも聞こえてきます・・・・あなたは全世界から「受け入れられ歓迎されています。あなたは大喜びで生きていいんです。ここで遊び放題遊びなさいよ。死ぬなんてとんでもないからね」。
★ 春爛漫を迎えた庄内。さあ周囲に注意しよう。生きとし生けるものすべて
が、私達に呼びかけ、万物の背後の造物主もまた私達をその最も深いふところに受け止め迎え入れてくれてはいないかどうか、あらゆる暗さを雲散霧消させる驚くべき光が迫ってきていないかどうか・・・・。
(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)
  


Posted by 矢沢牧師 at 14:38

2012年04月05日

イースターの意義

死と悪に勝利する文明の大祭
―イースターの意義についてー

矢澤 俊彦
 
クリスマスとならんで、「イースター(復活祭)」というキリスト教の大祭があることは、日本では余り知られていません。
でもそれは、ただキリスト教の祭りであるだけでなく、世界的意義をもつ現代文明の祭典であることについて、
かいつまんでお話したいと思います。

 クリスマスは毎年12月25日と決まっていますが、
この復活祭はその年によって3月末から4月の間を移動します。
それは昔から、「春分の日後の満月のあとに来る最初の日曜日」と定められているからです。
そこで今年は4月8日にあたり、この日は世界中の教会で、盛んなお祝いがなされます。
そして何日も祭日となる国々も多いんです。

 さて、そこでこのお祭りの意義ですが、
それはあの十字架につけられたイエス・キリストが、
神様の力を受けて、墓からよみがえったことで、
ここから以下の4点をあげることができます。

① 何より死人が新しい生命を与えられてよみがえる時です。
  私達の心に覚える人々も溌剌として楽しさいっぱい。また、
  この世に「生きながら死んでいる」おびただしい人々も、
  新たな人間に生き返るのです。

② イースターはまた、
  あらゆる「悪や不正や悲しみ」に対する勝利です。
  救い主(メサイア)を十字架にはりつけにするという
  人類最大の悪に打ち勝ったからです。

③ それは「文明の礎石」です。
  死と悪をのりこえた復活祭こそ「文明の祭り」、
  これなくして、どんなに立派に見える世界も、
  瓦礫化の運命を免れることはできません。

④ 復活祭は「永遠の春」の到来です。
  この世の春は、せっかく到来しても、たちまち夏となり秋となる。
  その限りなき循環のうちに救いはありません。
  上から降りてくる、
  もはや過ぎ去らない春の世界に引き上げられねばなりません。
  私たち自身も、
  またこの世界も、いわば「卵の中」で萎縮し、
  うめき苦しんでいます。
  でも今、外から親鳥が「さあ出てきなさい」と、呼びかけている。
  チャンス到来です!
  今自分の殻を破って飛び出さないと、
  小さな殻の中が墓場となってしまうでしょう
(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)
  


Posted by 矢沢牧師 at 12:37

2011年12月21日

荘内教会クリスマス礼拝

荘内教会 クリスマス礼拝

日時:12月25日(日)午前10時から11時15分
場所:荘内教会
    鶴岡市本町三丁目5-37
    TEL.22-8196

メッセージ:「どん底の人々への救い主」
              矢沢俊彦 牧師
独   唱: 中山 祥子

市民どなたでも、お出かけください。  


Posted by 矢沢牧師 at 14:35

2011年12月21日

クリスマス・メッセージ

民族的苦悩と信仰 
―最も美しき花は厳しい環境に咲く-

鶴岡  矢澤 俊彦
◆日本人の無宗教の不思議
 「こんな災難を受けながら、日本人はまだ無宗教なのですか?」と不思議がる外国人がいます。日本人のいわゆる「無宗教」・・皆さんも各人各様の御意見があるに違いありませんが、私にはやはりとても不思議です。これには、私が若き日に父の死に遭遇して以来、「死に勝つ」ことが人生の一大テーマとなったゆえの偏見もあるでしょうが、周囲を見ながら感心もします。人の命の驚くべきはかなさや短かさと、うまく折り合っているように見える。宗教なしにです!これはすごい。勇壮なる精神力と優れた「諦念」をもつ民族なのかなあ、などとも思うわけですが・・しかし疑問もあります。今みんなが求めている「元気」や真の明るさや希望なんかの根源をたどれば、それは優れた宗教が与えてきたものではなかったか、と思われるからです。それだけを追求するのは、「木に登って魚をとる」の類といえば強すぎるでしょうか?
 でもこういういわゆる無宗教的生き方には、宗教の側にも相当の責任がある、即ち、オウム真理教などの邪教が多すぎることは別としても、長い伝統を持つ宗教も、わが国民を揺り動かし覚醒させる有効な刺激を余り与えてこなかったからではないか、と反省しきりです。

◆島崎藤村の教会への不満
 たとえば私は長野県出身なので、今文豪島崎藤村の言葉を思い出します。『夜明け前』や『新生』という小説名にも象徴されるように、彼は近代的自我と家制度との相克等で深く悩んだ人です。その藤村が,キリスト教会で説かれることは余りに明る過ぎて物足らないと言い、こう続けています。
 「真の慰藉(いしゃ)なるものは、暗黒にして,且つ惨憺たる分子を多く含まねばならぬ。新生の真相といふやうなものは、その光景の多くは努力の苦痛と浪費の悲哀とに満たされたものかと思ふ。余りに光明ある言葉は、寧(むし)ろ聴衆を失望させるばかりである」。
 これは明治時代に記された言葉ですが、その後はどうか?多分今でもさほど改められてはいないようで、彼から一喝されそうです。お前たちはきれい事を言い過ぎる、言葉が深い悩みに裏打ちされていないぞ、苦しみからついに立ち上がった、という「ド迫力」が欠けておる・・と。こういう感性の鋭い人の眼をごまかすことはできないことを自戒させられます。そしてまことの信仰というものは、しばしば七転八倒の苦しみを経由してこそ成熟していくことを教えられます。

◆大宗教誕生についてのトインビーの研究
 悩みは人を深くします。きれいな花はきびしい環境に咲く、という話をある高山植物の専門家から聞いたことがありますが、世界で最高最深の宗教も、実は大きな苦しみの地で誕生した、というのが、あの歴史家の巨人英国のアーノルド・トインビーの主張です。彼は『歴史の研究』という膨大な著作でその検証結果を明らかにしたのです。
 その要点は・・・優れた「高度宗教」が生まれたのは地球上でわずかに2箇所、即ち北インドとシリアであった、というのです。そこは長距離交通の要路であるとともに、極めて異質にして優勢な文明に囲まれていたゆえに、その地の小民族は、それらとたえず対峙し闘争を繰り返すことになった。しかしあまりの劣勢ゆえ、幾度となく侵略され塗炭の苦しみが民族を襲い、いわば「三重のローラー」がかけられ続けた、というのです。即ち軍事政治的、経済的のみならず、文化的宗教的なそれであった。人々はその精神的屈辱や自己喪失のドロ沼的混沌にあえぐ中で、ついに彼岸と超越の普遍的世界を見出す。これこそ他のどこにも誕生し得なかった深さと世界性を持つ高度宗教で、それが彼らの苦しみに「意味」というものを与え、彼らを蘇生させた、というのです。それは民族的苦難を背景にした「創造的少数者」、あるいは個人の手によるものだったけれど。これがトインビー博士の検証のサワリです。話が大きくなりましたが、大変興味深く、またうなずけるものじゃありませんか!

◆恵まれたお坊ちゃんの国?
 ここで思いが及ぶのは我が国民の苦しみはどの程度か、ということです。日本は恵まれたモンスーン地帯に位置し、苦労知らずのお坊ちゃんたちの国だといわれます。だからキリスト教なんか分かるはずがない、という思いが、たとえばあのイザヤ・ベンダサン(ユダヤ人の名を借りて語った文筆家山本七平氏)なんかにあります。「日本教キリスト派」が精々だ、などという蔑称に反発するのも、お坊ちゃん育ちの強がりだ、と一蹴されそうです。
 でもきょうは皆さんと御一緒に、私たちの民族的な歩みをよく振り返ってみた「いのです。確かに「ひ弱な花」かもしれないけれど、それだけに少なくも、あの幕末の「黒船来襲」以来の大混乱と苦闘は、先ほどトインビーの指摘した文明間の闘争の(スケールは小さいけれど)新たなヴァージョンのような気がしないでもありません。

◆黒船以来の苦闘をたどって
 わが国も、鎖国を解いて以後、予想だにしなかった圧倒的に優勢な西洋文明の非常な衝撃と圧迫の中で、「和魂洋才」を合言葉に必死で戦ってきたのですが、ついに無謀な戦争に訴え敗戦。その後も懸命な復興努力を続けた歩みは、やはり苦難の連続でした。その百数十年というものは、国はもちろんのこと、どんな人々の心中にも、絶えず激しい嵐が吹きまくっていた年月ではなかったでしょうか。
 背は低い、国土は狭く資源もない、でも誇りをもって世界を堂々歩きたい、これが近代日本の国民的悲願でした。でもこのために流した先輩たちの血と汗と涙は決してわずかのものではなかった。今だってそうです。たとえば問題のTPP交渉や、サッカー・スケートなんかのスポーツ選手の活躍、あるいはあのオリンパスの企業犯罪。社長さんに20年間も直言できる人が誰もいなかった、という日本的体質にはあきれ、「神不在の風土」も感じます。が、こうして、経済界も文化そのほかの世界でも、私たちは長く相当の無理を重ねてきているのです。いつも何かに追われているようなせかせか齷齪の生活をまだ改められないでいるのですから!

◆丸裸にされた日本
 そこへきて今度の大震災、津波や原発の試練です。オウム事件や阪神の震災の時も、私はこの国が精神的にも物質的にも丸裸にされたように感じましたが、今回ははるかにあれ以上です。私たちはこの裸を覆う木の葉すらなく、まだ立ち尽くしている感があります。この国土も文明も、実に営々たる努力で築かれたものです。それが一瞬にして瓦礫化してしまうのです。自然は、ここにある花も美しいように、我々はどれだけその恩恵を受けているか分りません。短歌俳句もすばらしい世界です。でもその自然の本質には、かくも荒々しく残忍無比でどうにもならない面があることを知らされました。

◆砂上の楼閣だった
 呆然とする中で思います。私たちはこの素晴らしい現代文明の世界にも、また豊かなる大自然界のいかなる場所にも、私たちの魂を安らわせることは出来ない。その表面的な姿に欺かれ、このたびの悲痛な体験を空しくしてはならない、と思うのです。 
 今回明るみに出されたのは、この国が結局「砂上の楼閣」であった、ということ。先輩たちの幾多の獅子奮迅の努力にもかかわらず、です。今ようやく私たちも、このことに気づき始めているのではないでしょうか。そこで、これからこの国をどういう精神的基礎の上に建てていくか、決して再び瓦礫化しない頑丈無比の岩の上に新しい日本をどうして築いていったらいいか、これが実に大きな課題であります。

◆らくだが針穴をくぐるチャンス
 苦悩の中でこそ深い信仰が生まれる、というのが今日のテーマです。ここまで、即ち「黒船」から敗戦と大震災まで苦しんできた同胞たち、「無宗教」を気にもしてこなかった人々も、ここへきて宗教的なものの必要を感じ始めているのではないでしょうか?たとえば聖書にある有名な「迷える羊」の話、飼い主から離れた羊ほど悲惨な姿はありません。行き倒れ、赤肌を露出し、傷だらけで、息も絶え絶えであるというのです。
 あるいは今絶妙に思うのは、富んだ人が天国に入るのは、なんと「らくだが針の穴をくぐるよりもっと難しい」という話。これを聞いた弟子たちはぶったまげてしまうのですが、どうでしょう、これは今こそ被災者のみならず、多くの日本人に深い共鳴と慰めを与えるものではないでしょうか?自分が「無」に等しい存在だと深く自覚させられてこそ、救われるというのですから。

◆近代日本の救いのために
 優れた宗教―そこから芸術や文化も花開いたのですがーは、民族的な深い苦悩から誕生した・・とすれば、これはここまで苦しんできた今の日本人にも大いに示唆的です。もうエコノミック・アニマルなんて呼ばれたくありません。目指すは深い精神性豊かな国、そのために建てあげる堅固な岩を見出すことです。 このためには宗教の側の大いなる覚醒が必要です。父祖以来の国民的苦悩にいかなる「意味」を与えることができるか、それによって日本の近代は救われるのです。それによって、あの大戦や災害の犠牲者一人ひとりの命に意味が与えられるのです!

 長くなって失礼しましたが、最後に無宗教といわれるこの国の霊性精神性も、少し長いスパンで見れば、決して低いものでないことは既に知られています。それは和辻哲郎、亀井勝一郎、あるいは鈴木大拙   らの著作によってもよく分かります。師走に入ったせわしない日々ですが、今年は以上のような国民的課題にじっくり思いをひそめてみたいと思い、一筆させていただきました。失礼を御容赦ください。
(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)
  


Posted by 矢沢牧師 at 14:31

2011年05月19日

「津波の洗礼を受けた聖書」 NHK番組紹介

  (耳よりの情報です)

ケセン語福音書の山浦さん
        出版社の熊谷さん NHKTV「心の時代」に
                              荘内教会牧師 矢澤 俊彦

みなさんご存知の山浦さん、大船渡の医師で、10年近く前、福音書をケセン語に訳出、出版した方です。幸い津波の難をのがれ、お元気です。
 その出版を手がけたEPIX出版社は、大船渡の海岸近くにあったため社屋はすべて潰されてしまいました。それにもめげず、社長の熊谷雅也さんは再起しようと懸命です。
 この様子をNHKテレビが捉え、以下のように「心の時代」で放映する予定ですので、ご紹介いたします。友人その他にもお知らせいただくとありがたいです。           

 ★ 5月22日(日)午前5~6時 NHK教育テビ
 ★ 5月28日(土)午後1~2時 教育テレビ 再放送



(以下は「河北新報」 5月5日号 からの転載記事)

出版社経営 熊谷 雅也さん(58)=大船渡
―ふんばる 3・11大震災―
故郷の文化 次世代へ
―活字の灯 決して消さぬー

「大船渡は、自分が生まれた街。故郷の文化を本にして次の世代へ残していくのは、われわれにしかできないんだ」
大船渡市の出版社「イー・ピックス」。社長の熊谷雅也さん(58)は、4月上旬に移った同市大船渡町馬越の高台の新社屋で再起を誓った。
港近くの街中にあった元の社屋は、3月11日の大津波で流された。鉄骨造りの出版物倉庫は残ったものの、中にあった本5000~6000冊のほとんどが潮に漬かった。

三陸の海の魅力を紹介した本、大船渡など気仙地方で盛んだった採金の歴史などをつづった本。どのページをめくっても地域の文化が薫り立つ。
手塩にかけた「財産」が光を失っていくように見えた。しかし、不思議と悔しさはなかった。
「一度に全部をなくしてしまったからかもしれない。それに家族や社員は無事だったし、多くの人から励ましを受けた」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1979年に市内で印刷会社を創業し、2001年、出版に乗り出した。地元には自費出版を請け負う印刷会社はあるが、出版社はなかった。
うずもれた文化を掘り起こし「21世紀のグーテンベルク」になりたいと社の標語に掲げた。世界で初めて本を印刷した偉人が、熊谷さんと社員3人の目標だ。
計約1万部を売ったロングセラーがある。「ケセン語訳 新約聖書」全4巻。市内に住む山浦玄嗣医師が気仙地方の方言(ケセン語)に翻訳した聖書で、02年から04年にかけて刊行した。

震災後、この本が話題を呼んでいる。「大津波の洗礼を受けた聖書」として、全国各地のキリスト教関係施設などから注目を浴びているらしい。
「何が起こるか分からない。誰かどこかで、大船渡発の文化を求めている。」つぶれかけた倉庫にたたずみながら、ふとやる気がわいてきた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今は倉庫の中で、販売できそうな本を探している。ぬれた本を手に取り、パラパラとめくっていく。根気の要る仕事だ。
「乾かせば読める本もある。そういう本は少しでも救い上げ、読者の手元に届けたい」と言う。

新社屋は、自宅の敷地内に建てた。プレハブの簡素な小屋のようだ。だが、パソコンや簡易印刷機があって、何だってできるような気がする。
ただ、経営に対する気構えというか、心構えが以前とは違う。
「震災前は中小企業の経営者として、不景気の中でどうしようと、心配ばかりしてきた。」でも今は、生きている幸せを痛感し『今日もいい日だった』と、毎日が大切に思えるようになった」
震災後初となる本を、5月末か6月上旬には出版できそうだ。県外の人が原稿を持ち込んだ企画ものだ。「今後1年ぐらいで4、5冊は出版できる。会社の行く末を心配してくれた多くの人の期待に応えていきたい」
がれきの街の向こうに出版文化の灯はともっている。


山浦さんからのご連絡

NHK教育テレビ「こころの時代 ~宗教・人生~」で、「私にとっての 3・11」シリーズの一つとして、わたくしやカトリック大船渡教会の仲間の出演する「ようがす、引ぎ受げだ」という1時間番組 が放映されます。津波の災害を前にして聖書をどう読むかという問題を提示され、わたくしなりに考えたことを述べました。イーピックスの熊 谷雅也くんも出演し、津波の洗礼を受けたケセン語訳聖書のことなども 「お水潜りの聖書」として話題に出ます。録画はちょうど聖週間で、カ トリック大船渡教会の聖金曜日、聖土曜日の復活徹夜祭(当日は大嵐で した)、復活祭のミサも収録されました。

大船渡教会では5人の信者が亡くなり、約20家族(まだ正 確な数字が確認できないままです)が家を流されました。教会の建って いる丘は激浪に削られ、車庫や納骨堂が根こそぎ波にさらわれて破壊さ れました。
わたくしども大船渡教会の仲間にとり、「こころの時代」への出演は 2002年に「ケセン語で読む聖書」、2004年に「ヨハネからのたよ り―ケセン語訳聖書の世界―」に続く3回目となります。

  


Posted by 矢沢牧師 at 18:34

2011年05月16日

お花がすべて消えた国のはなし

       お花が消えた国の話          2011年5月16日
          (月曜礼拝カードNO。7  お話―裕子先生 脚色―延長)         ★ある国のお城にとてもプライドの高いいばりんぼうのお姫様がいました。いつもきれいな服を着て、入念にお化粧をして・・・自分はもう最高にきれいだ、とうぬぼれ自慢していたのです。だからすこしでもきれいな人にあうと、夜も眠れないくらい嫉妬心で苦しむのです。王様や家来もこれには大弱り、、でもどうすることもできません。
★ そんなある日、お姫様はひとりで散歩しているうちに、まだ来たことのない宮殿のおくの庭にやってきて・・・・そこで呆然として立ちすくんだのです。・・そこには見たこともない美しい色とりどりの・・・そう「お花」というものを見たのです。
★ えっ、お姫様お花見たことないの?そうなんです。どうして?それはね、さっき言ったでしょ、自分が世界一美人だと高慢になってるお姫様がお花を見たら・・きっと頭がおかしくなっちゃうんじゃないか・・・王様も家来もそれを心配してお城の中には一輪の花もおかないようにし、ただこの奥の庭だけでそっと育てていたんです。
★ 案の定、お姫様はびっくり仰天です!「なんです、これは!この色、かぐわしいにおい、あらゆる形の魅力・・あまりのきれいさに圧倒された姫は、
その場で気を失ってしまったのです!お城は大騒ぎとなりました。やがて気がついた姫が聞きました。「この花というのはここだけにあるのか?それともお城の外にもあるのか?」・・・困った質問ですが、もう正直に答えるほかはありません。
★ 国中にこんな美しいものが咲き乱れていることを知ったお姫様は怒り狂いまし
た。「なんでわたしに隠しておいたのか、卑怯者!」と家来を叱りつけ、さっそく国中からすべてのお花を一掃するように命令を出したのです。仕方がありません。大勢の家来が出かけていっておふれを出しました。みんなびっくりしたり怒ったり文句を言ったり・・・でもしばらくのうちに、この国からすべてのお花が消えてしまったのです。
★ さてそれからこの国はどうなったと思います?お庭や道路や畑だけじゃない、
お家や学校、病院やお店や散歩道や・・・もうどこへ行ってもお花の姿がないのです。段々みんな機嫌が悪く怒りっぽくなり、すぐけんかをするようになりました。みんな疲れて病人がふえてきます。歌や踊りもなくなり、結婚式も静か・・・火の消えたような国となって・・笑いのかわりに争い、思いやりのかわりにドロボーが横行する・・くらい暗黒の支配するところとなってしまったのです。
★ その様子がやがてお姫様にも伝わりました。何晩か眠らず考えこんだ姫。そしてやっと気づいたのです。「そうか、お花という不思議なものは、みんなを明るくする
ために天の神様がこの世に下さったもの。その美しさはすばらしい。自分がきれいだ、なんて自慢していた私はどんなにみにくいひどい人間だったことか!」 こう気づいた姫はみんなに謝るとともに、国中をお花でいっぱいにするよう命じたのです。
お花が消えた国の話          2011年5月16日
(月曜礼拝カードNO。7  お話―裕子先生 脚色―延長)         ★ある国のお城にとてもプライドの高いいばりんぼうのお姫様がいました。いつもきれいな服を着て、入念にお化粧をして・・・自分はもう最高にきれいだ、とうぬぼれ自慢していたのです。だからすこしでもきれいな人にあうと、夜も眠れないくらい嫉妬心で苦しむのです。王様や家来もこれには大弱り、、でもどうすることもできません。
★ そんなある日、お姫様はひとりで散歩しているうちに、まだ来たことのない宮殿のおくの庭にやってきて・・・・そこで呆然として立ちすくんだのです。・・そこには見たこともない美しい色とりどりの・・・そう「お花」というものを見たのです。
★ えっ、お姫様お花見たことないの?そうなんです。どうして?それはね、さっき言ったでしょ、自分が世界一美人だと高慢になってるお姫様がお花を見たら・・きっと頭がおかしくなっちゃうんじゃないか・・・王様も家来もそれを心配してお城の中には一輪の花もおかないようにし、ただこの奥の庭だけでそっと育てていたんです。
★ 案の定、お姫様はびっくり仰天です!「なんです、これは!この色、かぐわしいにおい、あらゆる形の魅力・・あまりのきれいさに圧倒された姫は、
その場で気を失ってしまったのです!お城は大騒ぎとなりました。やがて気がついた姫が聞きました。「この花というのはここだけにあるのか?それともお城の外にもあるのか?」・・・困った質問ですが、もう正直に答えるほかはありません。
★ 国中にこんな美しいものが咲き乱れていることを知ったお姫様は怒り狂いまし
た。「なんでわたしに隠しておいたのか、卑怯者!」と家来を叱りつけ、さっそく国中からすべてのお花を一掃するように命令を出したのです。仕方がありません。大勢の家来が出かけていっておふれを出しました。みんなびっくりしたり怒ったり文句を言ったり・・・でもしばらくのうちに、この国からすべてのお花が消えてしまったのです。
★ さてそれからこの国はどうなったと思います?お庭や道路や畑だけじゃない、
お家や学校、病院やお店や散歩道や・・・もうどこへ行ってもお花の姿がないのです。段々みんな機嫌が悪く怒りっぽくなり、すぐけんかをするようになりました。みんな疲れて病人がふえてきます。歌や踊りもなくなり、結婚式も静か・・・火の消えたような国となって・・笑いのかわりに争い、思いやりのかわりにドロボーが横行する・・くらい暗黒の支配するところとなってしまったのです。
★ その様子がやがてお姫様にも伝わりました。何晩か眠らず考えこんだ姫。そしてやっと気づいたのです。「そうか、お花という不思議なものは、みんなを明るくする
ために天の神様がこの世に下さったもの。その美しさはすばらしい。自分がきれいだ、なんて自慢していた私はどんなにみにくいひどい人間だったことか!」 こう気づいた姫はみんなに謝るとともに、国中をお花でいっぱいにするよう命じたのです。
  


Posted by 矢沢牧師 at 15:58

2011年05月09日

迷子になったクマ太郎ー母の日の保育園礼拝メッセージ

          迷子になったクマ太郎くんー母の日に  2011年5月9日
             (月曜礼拝カードNO.6 お話―丸山りえ先生)
★ 「お母さん、なあに、お母さんっていいにおい、洗濯していた・・・」・・・」
森に住む熊の子どものクマ太郎君は歌が大好き、そしてお母さんが大好き。きのうは「母の日」だったので、たくさんお手伝いをしたり肩たたきをしたり、おしゃべりしたり・・とても楽しい1日でした。でも少し前、こんなことがあったんです。
★ 「クマ太郎、きょうはお母さん忙しいから、町までお使いに行ってくれない。いつ
か行ったパンやさんまで。でも町は大きいから、すぐ帰ってくるんだよ」。
★ クマ太郎はお母さんのお手伝いができるなんてうれしくて仕方ありません。つい
鼻歌が・・「うれしいな、たのしいね、ひとりのお使いうれしいね・・・」。
「そうか、初めてのお使いなんだねえ、クマ太郎も大きくなったんだね、感心感心・・」とほめてくれたお店のおじさんです。・・・さあここまではよかったんですが・・・。
★ おじさんにほめられてのぼせてしまったクマ太郎。もともと遊び好きで探検好
き・・それに天気はいいし、第一町にはいろんな珍しいお店はあるし、にぎやかだし、大好きな車がどんどんやってきます。面白くて面白くて・・・興奮してあの「働くくるま」の歌を歌い始めた・・・。それから花やさンゃ時計やさんや大工さんや・・なんでも打ってるマーケットまで・・。あまりの面白さに、お家に帰ることを忘れてしまったのです!
★ 「しまった、もう暗くなってきた。おなかもすいちゃった・・・でもお家はどこなん
だ・・」。道がわからなくなったクマ太郎は必死でした。通る人に聞きました。「森はたくさんあるよ、どこの森なんだい?「お母さんの名前だけじゃわからんよ」・・おまわりさんも出かけて留守・・通る人は少なくなり、あたりはすっかり暗くなって・・疲れたクマ太郎はとうとう道ばたに倒れてしまった・・泣く声も出てきません。ああかわいそうなクマ太郎・・さあみんなも応援してnね・・「がんばれがんばれ」って。
★ いつの間にか夢を見ていました。それは大好きなお母さんの夢です。お母さんがおうたを歌っています、「子どものすきな王はどなた 子どもの好きなイエス様よ・・」。それを聞くと急に元気が出てきて「ぱっ」と眼が開きました。
 そのときです!その歌がむこうから聞こえてきたんです!耳をつねってみたクマ太郎(痛い、これは夢じゃない)。ソノ声は・・あの大好きなお母さんです。「l子どものすきな・・」の声の方に走り出すクマ太郎。ああよかった、よかった、と抱きしめてくれた。あったかいお母さんの胸。二人はどんなに喜びあったことでしょう。
りえ先生は「こんなお母さんをくださったイエス様にどれほどお礼を言ったらいいでしょう」と結びました。さらに私はこうつけ加えたい。「このお話で迷子になっているのは私たちです。大人も今みんな帰る家がわからない。そういう私たちを必死で傷だらけになりながら探し回っていてくださるのがイエスさまなのです(園長)。
  


Posted by 矢沢牧師 at 16:27

2011年05月04日

みじめな盲目の乞食ーこれは人類の代表です!

     みじめな乞食の中に神様が隠れています   2011年5月2日
             (保育園月曜礼拝カードNO.5 )
すみれくみさんもきょうから一緒。園長先生がこんなお話をしてくれました。
★ トマス村にウッドさんという木こりがいました。ある夕暮れ、森の入り口でなんと泣
きじゃくる赤ちゃんを見つけたのです。心のやさしいウッドさんはその男の子を連れてかえって、奥さんとお世話をし、「よーし、わしらの手で育てよう」とトマと名づけたのですが、・・・、そのうち気づいたことがあります。なんとトマの目は見えなかったんです。「まあいい、これも神様のおぼしめしじゃ」、と懸命に育てたのです。
★ トマはお手伝いもできないので、よくお庭で小鳥の声を楽しんでいるうちに自分で
歌を作ってよく歌っているのです。近所の人たちは、そのきれいな声にききほれています。そのうちにトマは「ぼくを町の通りにつれてって」と言い出した。そして通る人や動物の声を聞きながら、それをお歌にして歌い始めたのです。その美しい声に魅せられて近寄ってきた人たちがトマの帽子にチャリンとお金を入れてくれるようになりました。
★ トマはそれを父母にあげて少し気持ちが楽になりました。が、段々大きくなってく
ると、いつもお世話になっているのがつらくなって・・・ある日どうどう黙って家を出て遠くの町に行ってしまったのです。
そこで橋の下で寝起きしながら街角で歌うのですが、今度は誰も近づいてこない。どうしてかなあ・・それは頭も服もほこりだらけで臭かったからでしょう。そのうち「あっちへ行け」と石を投げたり、つばきをかけられたり、「親の罪をかぶせられたんだろう」などのうわさ話。
★ 悲しくなって何度も泣いたトマです。・・ある時いつになく大勢の人たちがやって
きたのですが・・・誰かの声・・「イエス様、あそこにきたない乞食がいますぜ。どうかこっちを遠回りしていきましょう」。すると、「ばかもの、お前たちは神様のことが全然わかっとらんぞ」の声。
そしてその声の主が静かにトマのところへ、「トマ、つらかったろう、お前のことは天の神様がしっかり覚えているぞ・・さあ、私と一緒についておいで」、と手をとられました。ソノ優しさにわけもわからずついていくと、近くの池の水をすくって泥をつ
くり、それをトマの目に当てたのです。
★ するとどうでしょう。トマの目が少しづつ開いていくではありませんか。驚き畏れるトマ。「わかっただろう、神様はお前を特別かわいがっとることが・・」。びっくりして反省したのはお弟子さんたち、「イエス様、ごめんなさい、ひどいことを言って」と。・・それからトマはどうしたでしょう、イエス様にこういわれました、「さあ早くあの村に帰りなさい。お父さんたちが心配してるよ」。・・・見えるようになったトマに再会して、ウッドさんたちみんなもイエス様の弟子になったのです。
  


Posted by 矢沢牧師 at 16:51

2011年05月04日

人間は人のために役立ちたいのです!

          人間は人の役にたちたい
          利他心の活性化で閉塞社会を変えよう
                                 矢澤 俊彦
              人間の活性化をもたらす救援活動
このたびの震災被災者に対し、国内外で多くの人々のさまざまな救援活動
がとても活発に展開されています。ボランティアをする人々も意気込んでこれを行い、被災者たちもそれを深い感謝で受け止めています。「こんなひどい災害の中で、生き抜こうとしているこの人たちの勇気はたいしたものと感心した」とか、「遠くからこれほど大勢助けにきてくれるなんて・・・生きる元気が出てきます」・・などの声が連日伝えられています。
私はこの様子を見聞きしながらよく考えるのです。それは・・・私たち人間が本当に「活性化」し、強い「生きがい感」を感じるのはどういう時であろうか、(誇張して言えば)死人が生き返ったようになって生き生きと生き始めるようなことがあるとすれば、それはどんなときであろうか、こういう人間に関する興味深い問いです。

               他人に役立つときの生きがい感
今私の得ている答えを端的に言いましょう。
私たちが一番生きがいを感じるのは、なんらかの意味で、自分が他人のために「役立っていること」を感じるときで、その「有益感」が強いほど、喜びも大きいということ。逆に、自分が「役立たぬヤツ」だと思う程度に応じて、生きがい感も弱く乏しくなっていくのではないか。震災救援に駆けつけたいけれど、そのための体力もお金もエネルギーもない・・・そう思ってひそかに落ち込んでいる人々は、多分救援参加者よりはるかに多いのではないでしょうか。一方に元気の出た人がいる。しかし他方よけいみじめになっている人もいるのです。
以上のことは、考えてみると常日頃の生活でも容易に見てとれそうです。たとえば八百屋さんでも魚屋さんでも、「この間のあれ、とてもおいしかったよ」といわれると、それはよかったとうれしくなるし、お医者さんや看護士さんは、よくなって退院する患者さんを見送るとき、ああこの仕事についてよかった、と幸せな思いを味わうのではないか。多分これはどんな商売だって同じでしょう。決してお金もうけだけが目的ではないのです。

                  実に高貴で美しい人間性が
でも気づいてみると、これは大きな発見ではないか。人間は自分の幸せ
だけを追求しているように見えます。でももっと奥深いところでは他人の幸せを求めている!世界のどこかに不幸な人々がいると、自分の幸せもどこか損なわれるような気持にもなる。そこでとにかく、何かのために自分が「用いられ、役に立てられ、それを喜んでもらいたい」と、心のどこかで強く願っているとしたら・・・・・。
人間とはなんとすばらしいもの・・・崇高で高貴で、実に絶賛に値する生き物では
ありませんか。ひとことにまとめると、「人間は他者に自己を与え、自分をささげ切るとき幸せを感じる」「私たちは、自分を必要としてくれる人を必要としている」「人は実に他者への“愛”に生きるものである」と。

                でもこの殺伐たる状況はどうして
さて、これからが問題です。もし上に述べたことが正しいとするならば、大
きな疑問がわいてきます。それは・・どうして私たちの日常は、かくも“悶々”たるものであるか、自分が世の中のために役立っているかどうか確認できず、いわゆる「精神的閉塞状態」にある平成日本。多くがどこか「気力」をなくし、夢も希望もしぼませながらも、どこかで「真の活気」を懸命に求めているのでは・・・。
でも目につくのは「自己中心」であり「冷たい無関心」であり「無縁社会」の中での殺伐たる状況であり、果ては戦争です。・・・これはいったいどうしたことだろうか、という疑問です。
これは大きな問題ではないか。私たちは他者に思い切り自分をささげることで幸
せになるようにできているのに、ふだんはそれを生かし得ず、とかく逆を行っている。これは大いなる矛盾ではないでしょうか?ここら辺をよく考えてみなければならないでしょう。

                 深刻なニーズが見えない日本
私は次の3つのことをとりあえず述べて、読者の皆さんのご意見を伺いた
い、と思います。
その第1は、開発が進んだと見える現代日本。でもその日常を襲っている様々な災いや悲しみが見えにくくなっていることです。助けをひそかに求めている人々は無数にいるのに・・・不思議なほど声にならない(出さない)し、姿も見えない。ごみひとつ落ちていない道路のように。それゆえせっかくインプットされている「利他心」(利己心の反対)を発動する「相手」も「機会」も見出せないでいる。
ちょっと注意すれば、「社会的無用感」に悩み、「自分はここにいないほうがいいのでは」、と感じている人々だらけの死屍累々たる模様が見えてくるはずですが・・・。

その第2は、やはり今の日本社会の相変わらずの多忙、効率本位の生き方、経済至上主義、競争主義・・・こういうものの激しい渦の中にいることでしょう。こういう圧倒的な傾向の中で、私たちはつい自分のことだけでいっぱいになり、「役立たずは邪魔だ」というような考えになっている。そっして結局は弱肉強食の殺伐社会の構成員となってしまっている。阿鼻叫喚の巷を見て見ぬふりをして・・・これが私の観察です。

                利他心がひ弱、矛盾の中の人間
第3は賦与されている他社への思いやりや善意が「ひ弱」であること。それゆえ多少の抵抗や障害、悪意や不愉快な経験や事情の変化、相手の出方、さらに時間の経過などに負けてしまいやすいことです。そこでせっかく芽生えた隣人愛の炎も、次第にかき消されてしまうかもしれない。ああ、この人間愛がもっと強く激しいものであったなら・・・。今の社会を席巻している非人間的悪条件・・・目に見えない大津波の被災者救済に立ち上がれるでしょうに。

                 状況脱出の方法は?
以上の分析が正しいとするなら、現代の人間は本当に大きな矛盾の中で、呻吟しているのです。何かのために役立ちたい、と強く願いながら、その機会も相手も見出せないで悶々としている。職業(仕事)が与えてくれる生きがい感は不十分であるし、誰だっていつまでも働けるわけではない。さてこの状況から脱出する方法は?私なりに考えてみたのは以下のことです。
その理由の第1については、「悩む者たち、できる限り大声を出せ」といいたい。ちっぽけな誇りも、遠慮も迷惑も「サムライ精神」もかなぐり捨てて・・・。
第2は国民こぞって暮らし方を変え、幸せについての価値観を大きく変えること。「役にたつ」「焼くにたたない」とはどういうことか、よほど考えねばなりません。精神的に瀕死状態にある多数の同胞を救う道はこれしかないと思われます。
  そして第3にあげた「愛のひ弱さ」の克服が、何といっても最大の課題だと思われます。そしてこの難問解決は、結局人間の努力の及ぶところではなく、つきつめてみると、やはり力ある大宗教に期待するほかにない、と私には思われます。

                  新しい愛を充填するキリスト
  キリスト教では、この「他者への愛の衰弱」は、人間が創造者である神様の愛から離れて「一人歩き」し始めたことに起因すると考えています。そこで自力を頼る自己中心主義の修羅場が現われたのです。ただ我々の心の深みには、隣人への愛によってこそ充足するという高貴な傾向が消えずに残っていること、これが今回明らかにされつつある点です。聖書の人間理解は、この意味で「性善説」に立ちながら、「性悪説」へと誘われる現実を指摘しています。

そこで救世主キリストは、弱っている愛の力を増強して人類すべてに注ごうとしておられるのです。
 それゆえ彼のまわりに集まってきたのは、当時の社会で人間扱いされていなかった「のけ者たち」であり、「無用感」に悩む病人や障害者でありました。まさにそういう生ける屍とも見えた人たちが「有益感」に満ち、なぜか不思議な生きがい感をもって嬉々として生き始めたのです。
  以上長くなりましたが、このたびの被災者救援活動を見ながら導かれた思いを記させていただきました(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)。
  


Posted by 矢沢牧師 at 14:11

2011年05月01日

北インドの貧しい村で


 インドで見えてきた自分のごまかしや偽り
                     荘内協会保育園長 矢沢俊彦
(以下はこの1月下旬、三浦照男(農業)宣教師を訪ねたときの感想です)

★ インドの貧民に触れるのは大いなる体験です。そこで私たちは「丸はだ
か」にされます。追いはぎにやられる、という意味ではもちろんありません(もっともそういう可能性もありますが)。それは「はだかである自分」をそこで見出す、という意味です。ですからインド(人)は、何も故意にやっていない。ただありのままの生活を見せてくれるだけです。
でもふしぎです。そこで聖書のことばがピーンとひびいてくるんです(たとえば黙示録3章14節)。インドの農村の光景は、まさにイエス様が活動しておられた世界そのもののようなのです。物乞い、障害者、らい病人、お金持、さまざまな宗教・・・その他みんなそろっています。

★ 日本にいて自分というものが分からなくなっている方には、あの農村行
きを勧めたい気がします。太古の時代を思わせる粗末な石造りの家に住む貧しき人々。ほとんど家財道具など持たず、食べ物着物にいつも不自由している。しかしその中で考えさせられるんです。本当に貧しいのは彼らより私たちのほうではないのかと。
私たちは確かにいろんなもので装い、つくろい、飾り立て格好はつけてはいます。でもあの貧民の前に立つと、自分達の生き方、、人間関係、生活力、そして信仰などにおいて自分の非常な貧しさやごまかし、恥ずかしさや罪悪感を感じてしまうのです。自分達の姿の偽りがすっかりあらわにされてしまう思いがする、ああ、これまで何をしてきたのか、これらの「偽装」の手立てをつくろうのに汲々としてきたのか、物心ついてからの営々たる努力は何を目指していたのだろう・・・などとうなだれたり考え込んだり・・・でもそうして自分の姿が見えてくるのは何よりうれしいことじゃないか・・・と思い返したり・・・ああいずれにしても、これは本当に手厳しいスタディ・ツアーであるなあ、と、ひそかに感じていました。

★ たとえば私はこうも思いました。もし自分があのインドの町や村に放り出
されたらどうであろう。金が尽きれば、多分何もできまい。リキシャの運転なんかむろんわずかでもムリ。まず物乞いくらいだろう。でもそれもできまい。あれだってかなりの習練が必要なのだ。とても生きながらえることはできません。
 今の話は過酷に過ぎるかもしれませんが、それはわたしたちの置かれた状況を鮮明にしてくれているのです。・・・・すなわち、我々はこの世界に投げ出され捨てられ、誰からも顧みられない、守護者はおらず、あらゆる危険にさらされている・・・地上をはいずりまわるあわれなる虫ケラではないか。これが私たちがおかれている生の状況なのです。

★ きびしい気候や生活環境の中で、インドの貧民は、自分達の命がどんな
に危ういものか、それがどれほど死と隣り合わせなものか、それはもう日々体感しているのです。リキシャ運転手の過酷さが象徴的です。あのとにかくすさまじい交通の恐るべき雑踏の中で、ほんのわずかな不注意やミスが命取りになるのですから。

★ であればこそでしょう、インドの人々は宗教というものにあれほど真剣に向き合っているのだ、と思われてなりません。ヒンズー教徒(国民の80%)の日常の行、瞑想・祈り・喜捨、そして巡礼やガンガ(ガンジス河)沐浴の有様に接して、私は何か異様な必死さを感じます。彼らの素朴ともみえる信心を軽んじることができるでしょうか?人口も約12%いるイスラム教徒も同様です。ああいう懸命さに比べれば、私どもを含め、多くの日本人の信仰生活なるものは、まるで「児戯(こどもの遊び)」に等しいかのようなのです。

★ インドが暴露してくれた私たちの姿。それはみじめな「はだかの王様」であ
りなおよく見れば、「血の中を転がりまわっている」(エゼキエル書16章6節)危うい生命体にしか過ぎません。で、そういう私たちは、ただ天の神様のあわれみによって拾い上げられ、洗われ着せられ食べさせられて、やっと今日あるを得ている・・・この大いなる事実をしっかり味わっていくなら、私たちはもう気もおかしくなるほど、大いなる感謝感激で包まれるでありましょう。
 結び  私たちの偽装や思い上がりを明らかにしてくれたかの国の貧民たち。「私たちが貧しい人々にどれだけのものを負い、教えられているか・・・それは天国に行ってわかるでしょう」(マザー・テレサ)。
彼らに深く感謝しながら、これから私たちも人間として少しでもごまかしのない生き方をしたい、とあのガンガの水を眺めながら思いました。そして(困難なことですが)弱い人たち貧しい人たちを踏みつけないで生きていくことも・・・。

  


Posted by 矢沢牧師 at 00:23

2011年04月30日

復活祭礼拝で感じたこと

         復活祭礼拝に感じたこと
            ーまさに大輪の花が乱舞しはじめたー
さる4月24日ののイースター礼拝、すごく感動的でした。震災で落ち込んでいた日々の中に、「ぱっ」と大輪の花が思いっ切り開いたような喜びの爆発を感じました。多分庄内では桜も満開だった?でしょうが、それら全部に優って輝く力強い生命がやってきた、という感じです。こんなにすばらしい礼拝がこの日本で持たれているなんて・・・教会の将来にも期待がふくらみます。
 
 まずあの全体でちょうど1時間くらいでしたでしょうか・・冗長に流れず、きりりとしまる中でのプログラムの展開と演出。あの音楽的祭典の構成には、実に心憎いばかりのうまさと熟練が隠されてますね。無論礼拝ですから、基本的には人間的作為でどうとかできるものでないことを踏まえたうえで、やはりあの発想と吟味された内容とパワーは、図抜けて秀で、おそらく世界のどこに出しても恥ずかしくないものです。

私はこんな集会が突然現われ出たとは思いません。多分牧師先生を中心に、みんながいろいろ試行錯誤を重ねられてきたのでしょう。会衆にも若い方が多くいて、讃美の声もよく響いていましたね。司会の導き方も適切、交読文も新作ですね。時宜にふさわしいものに、との工夫ありです。

さて静寂の中で導入部の賛美歌を、あのメッセージにふさわしく独唱者が実に効果的に歌いあげてくれましたね。「白百合が囁きかける昔」
のこと、それが今大事件となってみんなの耳がつんざくばかりに展開され始めた・・ああ、とうとうイースターがやってきた、との思いがどの人の胸にも広がったことでしょう。
その後の中山さんの喜びの熱唱は、会堂全体がゆり動くほどでしたね。あれはすごかった。まさに矢澤先生が適確に紹介されたように、「喜びの天使」そのものでした。「み墓をいでて・・やみの力を破り・・」、「主イエスは死に勝ち・・」で、私は自分の悲しみに「とどめをさされた思い」でした。まさに「死にたる我をも」生き返らせられた思いです。こんな礼拝に出ると、多くの死人も復活するに違いありません。

 遅れましたが、牧師先生の説教、簡潔に、しかし悲しみのどん底にいる人を引きあげるものでした。先生はもう50年近くも、マリアとあの墓におられるとのこと。なるほど、彼女と一緒に悲しんで、すっかり「透明」になられている人格を感じましたよ。「大人のさびしさがわからないのが子どもなんだよ」と切り返されたユーモアから始まり、瓦礫の中で父母に会えたこの日の喜び、これなくして無明の闇に閉ざされる国の話、「汝の墓よ」り出よとの主の一喝、復活っを確信しないでの子育ては「悲しみの種まきをしていること」、会者定離の解決がイースターであること、どれも印象深く、こんな話は誰にでもできるものではありません。みなさんをとても羨ましく思いました。「天の力にいやし得ぬ悲しみは地にあらじ」が耳にこびりついています。感謝(S/Y)。




  


Posted by 矢沢牧師 at 18:27

2011年04月30日

子育てのヒントから

   子育てのヒントから (園長発)   2011年4月28日
                        荘内教会保育園長矢澤俊彦
 昨日(5月26日)の保護者の集まりでお話したことの要約です。子育ての困難なこの時代です。私としても、奮闘中のお家のみなさんに何かヒントになるものはないか、と考えた結果です。長いお話ではなく、ちょっとしたキーワードのようなものから、考えをめぐらしてみるのもいいのでは、と思っています。「子育てはもう関係ない」、という方にも、人とのコミュニケーションという点で、何か参考になるかもしれません。

1 味方になりたい 園や職員は、みなさんともっと親しくなりたい、と思っています。皆さんの本当の味方になって、子育ての応援をしたい、と思っています。遠慮なくお互いにモノが言える関係を結びたい、と思っています。

2 400人が必要なのです 一人の子供が人間らしく成長していくには、親たちがどんなにがんばったって、それだけで決してうまくはいきません。まず400人くらいの村人(周囲の人々)全体の力が必要だという。これはあのヒラリー・クリントンのことばです。遠慮なく、みんなの助けを求めましょう。

3 けなげな適応 すばらしい適応力 みなさんのお子さんの力はすごい。心配だった保育園生活にも、すっかりなれてきています。家庭と違うこの広くて大きい世界に、けなげにも自分を適応させている。彼らの小さいけれど、しっかりした心を抱きしめてあげてください。それに比べると、私たち大人の方が、そういう力や、仲間づくりの能力は「退化」していませんか?

4 泣く子は愛されている 母親などから離れるとき、泣いてしまうのは当たり前。それだけ「愛着関係」ができていたことを喜んでください。母親としっかり結ばれることから安心感が育ち、段々まわりの人や友達に興味が出てくるんですよ。
 ご機嫌です もうみなさんのお子さん、とても機嫌がいい。いい笑顔をしてます。よく笑ってくれます。先生たちも気分がいい。それはお家の方が懸命に愛情を注いでいるからです。ありがたいことです。

5 生命力がインプットされて 胎児が成長しこの世界に生まれ出る。そして「誰も教えないのに」笑い、泣き、眠り、ことばを発し、寝返りをうち、手足を動かし、はいはいをし、ついに歩くようになって・・・・。この生命の不思議さ。実に感動的です。驚き、感嘆し、拍手を贈るばかりです。神様の備えられたこの力があればこそ、赤ちゃんは成長していく。あせることはありません。その姿をじっくり見て楽しもうではありませんか。

6 親は「庭師」(園丁) 子育ては草花や作物を育てるのに似ている(保育学の父フレーベルのことば)。よく観察する。あせらない。時のくるのを待つ。そしてその育ちのひとつひとつの段階を楽しむのです。むろん、水をあげたり、日光や風に当てたり、細かい心配りは必要ですが・・いわゆる「放任」(ただほおっておくこと)とは違います。
お花なんか、狭い場所でも育てていると、何かヒントが得られるかもしれません。

7 少ないほどいいもの 号令、命令(口調)、行動の指示、うるさい注意、禁止、しかること、おどし、威圧、こわい顔つき・・・これらがよくはないことはおわかりでしょう。イソップ物語の「北風」のようでなく、「太陽」のように、さんさんと暖かな光を注ぎかけることができたら・・・もう子育ては大成功です。
 貝と塩水 懸命に伸びようとしている小さな命に、大人の側からあまり「介入」しないことです。内部には、神秘的ないのちが躍動しています。貝を塩水につけておくと、自然に口を開きます。でも力であけようとすると、体をこわしても、絶対に開きません。

8 自主性と指示待ち人間 やかましく口を出し、手を出し過ぎていると、その子の内面性がそこなわれます。自分で考え、自分で行動することができなくなります。「よかれ」と思ってする親心がアダになる。いわゆる「自主性」のない人間になってしまいます。言われたことしかしない大人になる危険性大です。
見かけはぐずでも ぐずでのろまのように見えても、待ってあげてください。彼らの内部はしっかり動いているのですから。

9 自由保育というもの この保育園では、子らにできるだけ「自由」を与えています。遊びの選択、遊べる環境、十分な時間空間、遊びの相手選び・・。それをできるだけ保証してあげる。内側から出てくる思い、欲求や衝動を大事にしてあげるわけです。先生が「これからこれして遊びましょう」と設定してかかるのではありません。こういうやリ方を「自由保育」とか「子供中心保育」と呼んでいます。これには多くに知恵や工夫、注意深さが入用なので、そう感単にできるものではありません。

10 自信ある人間に どうしたら堂々たる自信をもって大事な生涯を送ることができるでしょうか?これはすべての親の願いでありましょう。当園の答えは。子らに最大の自由を与え、周囲世界を探検させよ。自分の目や耳、五感を駆使して面白いと思うものにぶつかて遊びこませよ。。興味関心をひくものがたくさんある環境をととのえよ。自然も遊具も友達も・・。そういう経験を通して、まず自分の目や耳や味覚などに自信を持たせるのです。
そうしてそれをことばや絵画や政策物などで、力強く表現していく。こういうことを積み重ねていくことです(当園の絵画造詣保育の考え方の基本)。

11 いたずらのすすめ 幼児は面白いことしかしません。自分で発見した興味あることしかしたがりません。彼らには「いたずら」とか「迷惑をかける」という概念はありません。そう思うのは、子供の遊び心を忘れてしまった大人だけでしょう。心がハラハラどきどきしてたまらない環境を用意してあげましょう。テレビなんかに見向きもしない子になったらしめたものです。
「困った子」 こう思うのも、大人だけです。何か困ったことをしている姿を見つけたら、注意したりする前に、「何がいったいそんなに面白いんだろう」、と少しながめてみてください。

12 共感する 子供の思いが「あー、なるほど」とわかり始めると、段々彼らの世界がわかりはじめます。楽しくて面白くて仕方ない世界に、あなたも入門し始めたのです。そうなればますます彼らは自分の世界を開き示してくれる。そういう人に近づき、なつき、表情も変わり、楽しくてどうしようもない、という顔つきになる、大人と子供の間に、「響きあう共感の世界」が生まれたのです!

13 「母性神話」 そういう用事や子供の心を読み取る力は、彼らとしっかりつきあいながら、次第次第に身につけていくもの。子供を産めば「母親」にすぐなれるのでもありません。
母性というものが女性には備わっているもの、と考えるのは間違い。そう思う父親がいたら、大いに改める必要がありましょう。たいていの父母は、わが子でも「時々愛し、時々憎らしく思うもの」(ある虐待問題の専門家の話)くらいに考えるのが現実的です。
 保育士さんだって同様です。出来上がった人なんかいません。日々何時間も幼児とかかわりながら、試行錯誤を繰り返しながら、段々それらしくなっていく。ここら辺は、保護者の皆さんも、優しく見守ってくださるとありがたいです。

14 子供こそ大人の教師 考え方の根本的転換が必要です。子供たちこそm私たち大人が、「人間らしく生きる」に必要な実に多くのものを差し出し与えてくれています。
たとえば・・・すなおでまっすぐ飾らない心、豊で楽しい遊びの精神、穢れなき友情、ユーモアやおどけや笑いの世界、のびやかな感性・・その他、たいていの大人がもうどこかに捨ててきてしまった貴重なる数々のものをふんだんに持ち合わせている。
彼らを妙に「しつけて」、つまらない大人のように(「都会にはよくそういう「小さな紳士淑女」がいます」してしまったのでは・・・どうしようもないじゃありませんか。
 私たちは人間社会について、眼前の小さな子より、よく知っている、と勘違いします。でも事実は、彼らこそが私たちを導いてくれる先生なんですね。

15 大建築の基礎 建物の基礎工事の念入りさを、私なんかも感心して見入ることがあります。人生最初の3年間、6年間は、まさにそういう基礎づくりの時期です。ここをどう過ごすか・・・、場合によっては「人間になりそこなう危険」があります。親たちもしっかり考え合って、適切な応援をするなら、やがてすばらしい建物がそびえ立つようにもなるでしょう。

16 夫婦仲良く これが大事であることは明らか。父母がいがみあうことが多くては、子供の心は想像以上に傷つき、情緒の発育も阻害されるでしょう。でも実際これほど困難なこともないかもしれませんね。

17 ここでキリスト教が 「あなたは(神様から)愛されている」という実感が与えられます。相手を受け入れるゆとりが生まれます。感謝の気持ちが生まれます。恵まれなかった幼児期を取り戻すことができます。

 しっかりした宗教の力は偉大です。人をして「新しく生まれさせる」ほどの力があります。私たちはキリストによってあやされ、背負われ、遊びこみ、飲み食いし、人間らしく「育てなおし」をしてもらう。これが「母なる教会」のありがたい役割です。やがて死にも打ち勝つ、たくましい人間となっていくでしょう。

こういう支えなくして、今度の震災が示すような「危険いっぱい」の世界を渡っていくことはこんなんではないでしょうか。ちなみに、日曜礼拝は午前10時から(私も2,30分のお話をします)。小学生は午前9時からです。学校教育に欠けている大事な教えと心を養う時間で。                       (続 く)
  


Posted by 矢沢牧師 at 09:33

2011年04月21日

号泣されるキリスト


          号泣されるキリスト
            -悲しみをのみほす復活祭―         
矢澤 俊彦
  大震災から一ヶ月が過ぎましたが、まあだ私たちはうちのめされています。悲しみに打ちひしがれています。大きな喪失感挫折感また無力感が心を占領しています。
しかしこのままでは生き残った私たちも、悲しみの津波に呑まれてしまいそうです。

  今の私たちには希望が必要です。悲しみに打ち勝つ強靭な希望です。それを必死になって探しまわっている私たちに差し出されているのがイースター(復活祭)で、今年はこの4月24日(日)にやってきます。
格別な思いで待ちわびるこの復活祭、それは人類を襲う大きな悲しみ苦しみをしっかり担(にな)ってくださる方、それらを担いきって死と悪に勝利した方がキリストと呼ばれる救世主です。
今キリストは日本人とともに号泣しておられます。激しく泣きながら悲しみをあとにして立ち上がられる。死も墓も後にしてよみがえってくださるのです。
  
私たちの悲しみを背負って下さる方がおられる。ここからこそ希望がわいてきます。そうして多くの先人たちは、無数の災害に打ち勝ち、多くの戦争やペストなどの恐るべき流行病などにも負けず、ここまであゆみを続けてきたのです。
来たる24日には、市内どのキリスト教会でも、悲しみを担ってくださる方の恵みを味わいながら、喜びをとりもどす祝いの大祭が持たれます。市民どなたでもおでかけください。
(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)



  


Posted by 矢沢牧師 at 16:54

2011年04月21日

イースター礼拝案内

イースター(復活祭)礼拝ご案内
                                 荘内教会一同
                                  牧師 矢澤俊彦
 今の日本の精神的危機は大なるものがあります。
 あの津波は私たちの内面までもうちのめしてい ます。うちひしがれて声も出ない私たち。  でも立ち上がらねばなりません。
そしてそのためには、大きな希望が必要です。

 今キリストは私たちと共に号泣しておられます。
被災者すべての悲しみをになっておられる。そして立ち上がってくださる。
人類の先頭に立ち、死と墓を後にし雄雄しくよみがえってくださるのです。
 
このよき知らせを受けた方々は、ぜひこぞって復活祭に集合し、力を得ようではありませんか!

 日時 201年4月24日(日)午前10時
     (独唱 中山祥子  祝賀昼食会も)
 場所  荘内教会礼拝堂

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人もし全世界を得たとしても、自分の魂を失ってしまったらどうしようもありません。力ある希望に生かされていないなら、その人は魂のぬけがら、「生けるしかばね」にすぎません。そこからどうして立ち上がれるでしょうか?

私たちは「死」に打ち勝たねばなりません。死は命の破壊です。これが津波のように人類に押し寄せてきている。これはアダム以来の人類の罪(神からの離反)のゆえです。人間らしい生活がこれで破壊されている。この大津波をその身に飲み込み、新たなる大生命を創造してくださる。これがキリストの復活です。
この神様を心から仰ぐとき、全世界を得るよりはるかに大きな快感と喜びがあなたの心を占領するでありましょう。
  


Posted by 矢沢牧師 at 16:45

2011年02月21日

インドで知ったわが身の貧しさ

         インドで見えてきた自分のごまかしや偽り
                     荘内協会保育園長 矢沢俊彦
          (2011年2月13日日曜礼拝にて)

★ インドの貧民に触れるのは大いなる体験です。そこで私たちは「丸はだか」にされます。追いはぎにやられる、という意味ではもちろんありません(もっともそういう可能性もありますが)。それは「はだかである自分」をそこで見出す、という意味です。ですからインド(人)は、何も故意にやっていない。ただありのままの生活を見せてくれるだけです。
でもふしぎです。そこで聖書のことばがピーンとひびいてくるんです(たとえば黙示録3章14節)。インドの農村の光景は、まさにイエス様が活動しておられた世界そのもののようなのです。物乞い、障害者、らい病人、お金持、さまざまな宗教・・・その他みんなそろっています。

★ 日本にいて自分というものが分からなくなっている方には、あの農村行きを勧めたい気がします。太古の時代を思わせる粗末な石造りの家に住む貧しき人々。ほとんど家財道具など持たず、食べ物着物にいつも不自由している。しかしその中で考えさせられるんです。本当に貧しいのは彼らより私たちのほうではないのかと。
私たちは確かにいろんなもので装い、つくろい、飾り立て格好はつけてはいます。でもあの貧民の前に立つと、自分達の生き方、人間関係、生活力、そして信仰などにおいて自分の非常な貧しさやごまかし、恥ずかしさや罪悪感を感じてしまうのです。自分達の姿の偽りがすっかりあらわにされてしまう思いがする、ああ、これまで何をしてきたのか、これらの「偽装」の手立てをつくろうのに汲々としてきたのか、物心ついてからの営々たる努力は何を目指していたのだろう・・・などとうなだれたり考え込んだり・・・でもそうして自分の姿が見えてくるのは何よりうれしいことじゃないか・・・と思い返したり・・・ああいずれにしても、これは本当に手厳しいスタディ・ツアーであるなあ、と、ひそかに感じていました。

★ たとえば私はこうも思いました。もし自分があのインドの町や村に放り出されたらどうであろう。金が尽きれば、多分何もできまい。リキシャの運転なんかむろんわずかでもムリ。まず物乞いくらいだろう。でもそれもできまい。あれだってかなりの習練が必要なのだ。とても生きながらえることはできません。
 今の話は過酷に過ぎるかもしれませんが、それはわたしたちの置かれた状況を鮮明にしてくれているのです。・・・・すなわち、我々はこの世界に投げ出され捨てられ、誰からも顧みられない、守護者はおらず、あらゆる危険にさらされている・・・地上をはいずりまわるあわれなる虫ケラではないか。これが私たちがおかれている生の状況なのです。

★ きびしい気候や生活環境の中で、インドの貧民は、自分達の命がどんなに危ういものか、それがどれほど死と隣り合わせなものか、それはもう日々体感しているのです。リキシャ運転手の過酷さが象徴的です。あのとにかくすさまじい交通の恐るべき雑踏の中で、ほんのわずかな不注意やミスが命取りになるのですから。

★ であればこそでしょう、インドの人々は宗教というものにあれほど真剣に向き合っているのだ、と思われてなりません。ヒンズー教徒(国民の80%)の日常の行、瞑想・祈り・喜捨、そして巡礼やガンガ(ガンジス河)沐浴の有様に接して、私は何か異様な必死さを感じます。彼らの素朴ともみえる信心を軽んじることができるでしょうか?人口も約12%いるイスラム教徒も同様です。ああいう懸命さに比べれば、私どもを含め、多くの日本人の信仰生活なるものは、まるで「児戯(こどもの遊び)」に等しいかのようなのです。

★ インドが暴露してくれた私たちの姿。それはみじめな「はだかの王様」でありなおよく見れば、「血の中を転がりまわっている」(エゼキエル書16章6節)危うい生命体にしか過ぎません。で、そういう私たちは、ただ天の神様のあわれみによって拾い上げられ、洗われ着せられ食べさせられて、やっと今日あるを得ている・・・この大いなる事実をしっかり味わっていくなら、私たちはもう気もおかしくなるほど、大いなる感謝感激で包まれるでありましょう。
 結び  私たちの偽装や思い上がりを明らかにしてくれたかの国の貧民たち。「私たちが貧しい人々にどれだけのものを負い、教えられているか・・・それは天国に行ってわかるでしょう」(マザー・テレサ)。
彼らに深く感謝しながら、これから私たちも人間として少しでもごまかしのない生き方をしたい、とあのガンガの水を眺めながら思いました。そして(困難なことですが)弱い人たち貧しい人たちを踏みつけないで生きていくことも・・・。  


Posted by 矢沢牧師 at 18:20

2010年12月28日

新年に 「平和のとりで」を

            築け、平和のとりでを、汝の心中深く
           恒久平和への国民的悲願を想起しよう
                                  矢沢 俊彦

1本の鉛筆があれば
   1本のエンピツがあれば 戦争はいやだと書きたい・・・
     1枚のざら紙があれば 8月6日の朝と書きたい・・ 

 御存知の方も多いでしょう。これは美空ひばりの「1本のエンピツ」という彼女のものとしては、とてもユニークな歌。でも私はこれを聴くたびに、心の内側からどーとこみあげてくるものを感じるのです。1本のエンピツを与えられている私たち・・・今沈黙していていいのでしょうか?これだけの豊かさを享受しながら、かえって精神的に閉塞沈滞し、かつてあった希望も理想も失い勝ちであるとすれば・・・こんなに申し訳ないことはありません。

               「終戦」でなく「新日本誕生の日」
 誰に申し訳がたたないか?それはまずこのたびの戦争で儀性となったおびただしい数の人々です。その中には日本が侵略した中国やアジア諸国の人達も含まれます。そのどの一人にも愛する家族があり、将来への夢も希望も持っている人々でした。私たちと同じように、生きる権利も資格もある人々。ああ、なんと無残なことを。

 猛暑の中で8月15日も過ぎ、8月も過ぎました。でも引き続き考えてみたいと思います。8月15日とは何であるかと・それは、あのような大きな悪を行い罪を犯した日本の過去と断固決別し、全く新しい国づくりを始めた日です。即ち、8月15日は「新日本誕生の日」です。それを「終戦」という言い方をするのは責任や意志が不明で正しくない、と私は思ってきました。もしまだ終戦と呼ぶなら、それは「戦争が終わった日」ではなく、戦争を終わらせた日」という思いを込めるべきでしょう。実際それもまぎらわしいので、私はやはり「新日本誕生の日」(ちょっと長いですが)を用いることを提唱したい、と思います。

犠牲者達の最深の思いは
 そこで私たちは繰り返し問うのです。あのおびただしい戦没者や犠牲者たち・・・彼らは今も私どもに語りかけているに違いないのですが・・は、私たちに何を望み願っているか、という点です。  それは自分たちの命をむなしくしないでくれ、みんな世界の人々とともに戦争はもうやめ、幸せに暮らしてくれ、ということではないでしょうか?そのために戦後掲げた恒久平和実現の大理想の牽引車となって生きることでは?
 このことをしっかり自覚せず、あるいは十分知らされることもなく、多くの命の犠牲の上に与えられた戦後社会の中で浮かれているとしたら、なんという恩知らずでしょう。現代の豊かな社会という大きな家の基礎には、戦争のために声も出せずに消え去っていった人々がいることを、繰り返して銘記せねば、と思います。

               悲願あらわな憲法前文
それではここで戦後の日本人の使命を要約しているものと私が思う有名な宣言をふたつ、改めて御紹介しましょう。
 ひとつは憲法前文の次の一節で、私はこれを涙なしには読めないのです。即ち、「我らは・・専制と隷従、圧迫と偏狭を、地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」のくだりです。
 私の読み解き方・・・私たちは大失敗をしてしまった。残念だが、「専制と隷従、圧迫と偏狭」に屈従した歴史だった。これを深く謝罪したい。でもなんとか国際社会の赦しの中で、この過去と決別したあゆみをさせていただきたい。そしてみなさんの中でそれを認めてもらえるようになるまで・・・・私たちはこれを「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」(前文末尾)ことを世界に約束したのです。

                  心に平和の砦を
 もうひとつはやはり戦後できた国際連合の目的達成に欠かせないものとして創設されたユネスコ(国連教育科学文化機構)憲章冒頭の一節です。
即ち、 「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなくてはならない」というものです。
 けだし名言、これを思いついたのはどなたか私にはわかりませんが、あの世界大戦の惨禍の深い深い反省に立った呼びかけに間違いありません。
 「平和のとりで」とは不思議な表現です。普通とりで(砦)は戦いのために築く要塞です。しかしそうでなく、戦争を消し平和を生み出すとりでを私たちの心中深く築けという。その意味を掘り下げてみる必要を感じます。

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               平和に生きるための6ヶ条
 以上を踏まえて、私たち日本人が平和のとりでをもち、恒久平和に貢献するために、なお必要なことを考えてみました。
1 国としての責任を明確に 各種式典などで、政府国民の「平和を願う気持」は十分確認されてきましたが、日本国家としての戦争責任がまだ不鮮明です。
明治維新以来、幾多の困難と闘いつつ国づくりに励んでこられた先輩たちへの敬意を、私は十分もっているつもりですが、この戦争はやはり憲法前文のいう「専制と隷従、圧迫と偏狭」のゆえであったことを、改めて明らかにすべきであると思います。
たとえば、あの大正昭和「治安維持法」が間違いであったことを、国はまだ認めていませんし、被爆者救援にももっと本腰を入れるべきでしょう。ドイツなど、戦争責任を国がはっきり認めている国がいくつもあります。

 2 外向き人間に 国民の「内向き体質」のようなものをさらに改めて、世界の国や文化を積極的に理解しよう、と努めること。情報の多量の流入にもかかわらず、まだ多くの人々は世界と向き合おうとせず、「文化的鎖国状態」に近い状態と感じます・義務教育の英語学習なども、この点での効果をあまり生んではいないようです。

 3 主体的学習を 記憶中心になり勝ちな傾向を改めて、自分の考えをもち、発表討論ができるようにする。特に批判的能力や判断力を身につけ、自己批判の力をつける。日本人も民族的自己愛に熱しやすい国民であることに十分注意したい。権威主義に代わる民主主義、精神主義を抑制する科学的精神を。マスコミ批判も大事です。

 4 歴史学習 ことに近代の戦争の歴史をしっかり学ぶ。できるだけ客観的に、事実に即して、自分でよく考えながら。何が戦争の原因となり、あそこまで進んでしまったのか?過去に学ばない人は、また同じ間違いをする危険がありましょう。

 5 自由な言論を  自由なはずなのに、多くの人が押し黙っています。タブーも色々ある。してはならない遠慮がある。すべき主張がわがままとする「体制翼賛体質」がありそう。国民の主権があまり生きていない。国民的討論の不在のさびしさ。江戸時代以来、抑えられてきた言論の自由。まだ無意識的抑圧の強い環境の中ですが、もうそろそろ楽しく自由な言論の沸き立つ社会にしていこうではありませんか!!

6 復讐を控える精神を  とりでに飛んでくる火矢や銃弾。やられたらやり返したくなるのは人間の自然。でも「平和のとりで」は、さらに高いあり方を示します。
それは憎しみねたみ、或いは不当な攻撃を受けても、それをそのまま返さない、「復讐は神にまかせよ」、「汝の敵を愛せよ」(聖書)との宗教的境地でもあります。
この心をみんなが身につけることは困難でしょうが、人々の上に立つ指導者のうちにこれが備えられるなら・・・・・国際平和にとっては無類の力になるに違いありません。刺激挑発に弱く、民族的自己愛や復讐心に富んだ人が責任者としてそこにいては、営々たる諸国民の努力も台無しになってしまうからです。(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)












  


Posted by 矢沢牧師 at 13:45

2010年12月28日

私の見たアメリカ

私の見たアメリカ人
(私はさる6月、機会を得てアメリカのミシガン州グランド・ラピッズ市に滞在、そこで教会や神学校や町の人々と交流してきました。以下はその印象記の一部ですが、とにかくアメリカの教会は元気で生きていますー矢沢俊彦。)
★ なぜアメリカを見たいか ① 米国は日本人にとってとてもよい「鏡」である。自分の姿を知る大切さ ② アメリカを知ることは大事。諸外国を知らないで、共に生きていくことはできない。「鬼畜米英」などと言い出した歴史。目隠しして歩く危うさ  ③ 聖書に学んできた国 民主主義を戦いとってきた歩み。生きている教会を体験して励ましと元気を与えられることは確実。
★ よく互いに話す。紹介しあう。笑顔で人を迎える。他人とであう機会が多い。議
論も質問もする。社交性が大変よく訓練されている。  
★ 自分の声を出す 欲求や情緒もよく人前で表現する 自分の考えを持たせるのがアメリカの教育 記憶中心の日本とは随分違う 
★ 親密感のある人間関係 まずすぐファーストネームでよびあう。家族に個人が
隠れるようなことはない。肩書きや地位、出身地や階層などに左右されない人間の平等意識が徹底されているのは見事。差別撤廃も進む。
★ ゆったりしておおらか 生き方に自信が感じられる。 みな機嫌がよかった。文
化の力を感じた。ゆとりを持って生活を愉しんでいる。助け合い精神が旺盛である。 自主独立が基本であるが、いつでも助けを必要としている人に手をさしのべる構えがあるように見えた。
★ サマースクールはじめ、教会学校が盛んです。一見の価値ありです。
  


Posted by 矢沢牧師 at 13:34

2010年12月28日

私の見たアメリカ

私の見たアメリカ人
(私はさる6月、機会を得てアメリカのミシガン州グランド・ラピッズ市に滞在、そこで教会や神学校や町の人々と交流してきました。以下はその印象記の一部ですが、とにかくアメリカの教会は元気で生きていますー矢沢俊彦。)
★ なぜアメリカを見たいか ① 米国は日本人にとってとてもよい「鏡」である。自分の姿を知る大切さ ② アメリカを知ることは大事。諸外国を知らないで、共に生きていくことはできない。「鬼畜米英」などと言い出した歴史。目隠しして歩く危うさ  ③ 聖書に学んできた国 民主主義を戦いとってきた歩み。生きている教会を体験して励ましと元気を与えられることは確実。
★ よく互いに話す。紹介しあう。笑顔で人を迎える。他人とであう機会が多い。議
論も質問もする。社交性が大変よく訓練されている。  
★ 自分の声を出す 欲求や情緒もよく人前で表現する 自分の考えを持たせるのがアメリカの教育 記憶中心の日本とは随分違う 
★ 親密感のある人間関係 まずすぐファーストネームでよびあう。家族に個人が
隠れるようなことはない。肩書きや地位、出身地や階層などに左右されない人間の平等意識が徹底されているのは見事。差別撤廃も進む。
★ ゆったりしておおらか 生き方に自信が感じられる。 みな機嫌がよかった。文
化の力を感じた。ゆとりを持って生活を愉しんでいる。助け合い精神が旺盛である。 自主独立が基本であるが、いつでも助けを必要としている人に手をさしのべる構えがあるように見えた。
★ サマースクールはじめ、教会学校が盛んです。一見の価値ありです。
  


Posted by 矢沢牧師 at 13:28