2009年09月23日

ぽっくり死にたいなんてあまりに低次元です!

                                2009年9月20日
           昇天者追悼礼拝メッセージ (要約)     
                          荘内教会牧師 矢澤俊彦

★ 私達の前に今掲げられているこの大勢の先輩たち。じっと見入ると、そ
の一人一人が遺影から飛び出してきて、神を讃美しながら、私達に呼びかけ、語り、あるいは叫んでおられるような感じがしてきます。今日はそのおびただしい声に、じっくり聴き入る日なのです。

★ まずささげるべきは深甚なる感謝と懺悔。日がたつにつれてこの恩人
たちのことを忘れがちであるとしたら、それこそ「忘恩の罪」に落ちているのです。去る者、日々に疎し、はクリスチャンの道ではありません。
この方々が叫んでいる最大のことは何でしょうか?それはイエス様を受け
入れて、この世の迷妄から救われよ、ということに違いありません。

★ キリストの光を受けるとどうなるのでしょう。心の嵐がピタリとやむ。この
世に生まれてから自分を悩ませてきた欲望や思い煩いや恐怖や不安などのすべてがうそのように静かになってしまう。えっ、こんなことってあるのだろうか・・・あまりの静けさや落ち着きに、自分自身日々驚愕しながら暮らしていけるようになるのです。

★ そうなればしめたもの、私達はこれまで出会ったすべての人々、身の
上に起こった出来事のいっさいに、深く深く感謝するようになる。それらのすべてあればこそ、この新しい自分があるからです。見るもの聞くものが感謝の対象になってきます。人生の目的地についに到達した、との思いは、なんと満ち足りたものでしょうか。そこから改めて、お世話になった人はもちろん、自分をいじめた人や傷つけた人、また袖をふれあっただけの人々にも、しっかりお礼が言いたくなってくる、「あなたのお蔭でここまで来ることができました」と。ここからまことの「追悼」も始まるのです。

★ 遺影の数々を前にして思うのは、死についてです。この死をどこかで恐
れていては、この人生に本当の「希望」という物はありえません。私はそう確信っします。なぜなら私自身、20歳の時、父の死に出会ってから、死神にとりつかれたような長い時期を過ごしてきたからです。それは長い夜で、時に七転八倒させられる苦しいものでした。でもしかし、とうとうその暗い力を舞台から見事に転落させてしまう、強力な味方が現れたのです。それで私の境涯はすっかり一変、心から笑える光と希望の国の住人となったのです。

★ キリスト教は実にてごわいもの。どんなに逃げても、私達は神様の前か
ら逃れられません。半端に生きるなら、真の喜びも安らぎもついに知らないままに、人生は恐ろしい速さで終焉してしまうでしょう。

★ 自分をさまざまに偽装してはいけません。これまでどんない迷い、むな
しい虚偽に満ちた生き方をしてきたか、表面的なつじつま合わせに狂奔しても、結局は破れだらけの人生だったことを正直に認めねばなりますまい。こんなに偽装して世間の目をごまかしてきたとすれば、「なりそこない人間」です。でもそういう我らがもう一度「生まれ直され、乳幼児から育て直される」・・・これが教会というものの最大のありがたさです。

★ この世を去ってからこそ、素晴らしい人生が始まる、と確信します。な
ぜ?それはこの世の親の愛というものを考えれば、容易に分かります。保育園の子らの父母たちも、もうみな懸命に子らを育てています。そうです、親は愛する子らを、どこまでもいつくしみ育くむ。そのわが子がやがて滅んでいく、あるいは死神の手に渡されるのを、手をこまねいて見過ごすはずがない。愛はいっさいの敵に打ち勝つのです。いわゆる「復活」はこのことを示しているのです。

★ その復活の命は、実は今すぐにあなたに授けられるのです。小さなこ
の自我というものを、キリスト様の愛に包んでもらい、それを滅してもらえばいい、そうすれば考えもしなかったような不思議な出来事が起こりましょう。これからはもう小我が生きるのでなく、「キリスト我がうちにありて生くるなり」が事実となっていきます。この多くの遺影からの呼びかけは、そのようなとびきり大きな幸せに生きよ、との大合唱なのです!

                                          



Posted by 矢沢牧師 at 18:05