2011年12月21日

荘内教会クリスマス礼拝

荘内教会 クリスマス礼拝

日時:12月25日(日)午前10時から11時15分
場所:荘内教会
    鶴岡市本町三丁目5-37
    TEL.22-8196

メッセージ:「どん底の人々への救い主」
              矢沢俊彦 牧師
独   唱: 中山 祥子

市民どなたでも、お出かけください。  

Posted by 矢沢牧師 at 14:35

2011年12月21日

クリスマス・メッセージ

民族的苦悩と信仰 
―最も美しき花は厳しい環境に咲く-

鶴岡  矢澤 俊彦
◆日本人の無宗教の不思議
 「こんな災難を受けながら、日本人はまだ無宗教なのですか?」と不思議がる外国人がいます。日本人のいわゆる「無宗教」・・皆さんも各人各様の御意見があるに違いありませんが、私にはやはりとても不思議です。これには、私が若き日に父の死に遭遇して以来、「死に勝つ」ことが人生の一大テーマとなったゆえの偏見もあるでしょうが、周囲を見ながら感心もします。人の命の驚くべきはかなさや短かさと、うまく折り合っているように見える。宗教なしにです!これはすごい。勇壮なる精神力と優れた「諦念」をもつ民族なのかなあ、などとも思うわけですが・・しかし疑問もあります。今みんなが求めている「元気」や真の明るさや希望なんかの根源をたどれば、それは優れた宗教が与えてきたものではなかったか、と思われるからです。それだけを追求するのは、「木に登って魚をとる」の類といえば強すぎるでしょうか?
 でもこういういわゆる無宗教的生き方には、宗教の側にも相当の責任がある、即ち、オウム真理教などの邪教が多すぎることは別としても、長い伝統を持つ宗教も、わが国民を揺り動かし覚醒させる有効な刺激を余り与えてこなかったからではないか、と反省しきりです。

◆島崎藤村の教会への不満
 たとえば私は長野県出身なので、今文豪島崎藤村の言葉を思い出します。『夜明け前』や『新生』という小説名にも象徴されるように、彼は近代的自我と家制度との相克等で深く悩んだ人です。その藤村が,キリスト教会で説かれることは余りに明る過ぎて物足らないと言い、こう続けています。
 「真の慰藉(いしゃ)なるものは、暗黒にして,且つ惨憺たる分子を多く含まねばならぬ。新生の真相といふやうなものは、その光景の多くは努力の苦痛と浪費の悲哀とに満たされたものかと思ふ。余りに光明ある言葉は、寧(むし)ろ聴衆を失望させるばかりである」。
 これは明治時代に記された言葉ですが、その後はどうか?多分今でもさほど改められてはいないようで、彼から一喝されそうです。お前たちはきれい事を言い過ぎる、言葉が深い悩みに裏打ちされていないぞ、苦しみからついに立ち上がった、という「ド迫力」が欠けておる・・と。こういう感性の鋭い人の眼をごまかすことはできないことを自戒させられます。そしてまことの信仰というものは、しばしば七転八倒の苦しみを経由してこそ成熟していくことを教えられます。

◆大宗教誕生についてのトインビーの研究
 悩みは人を深くします。きれいな花はきびしい環境に咲く、という話をある高山植物の専門家から聞いたことがありますが、世界で最高最深の宗教も、実は大きな苦しみの地で誕生した、というのが、あの歴史家の巨人英国のアーノルド・トインビーの主張です。彼は『歴史の研究』という膨大な著作でその検証結果を明らかにしたのです。
 その要点は・・・優れた「高度宗教」が生まれたのは地球上でわずかに2箇所、即ち北インドとシリアであった、というのです。そこは長距離交通の要路であるとともに、極めて異質にして優勢な文明に囲まれていたゆえに、その地の小民族は、それらとたえず対峙し闘争を繰り返すことになった。しかしあまりの劣勢ゆえ、幾度となく侵略され塗炭の苦しみが民族を襲い、いわば「三重のローラー」がかけられ続けた、というのです。即ち軍事政治的、経済的のみならず、文化的宗教的なそれであった。人々はその精神的屈辱や自己喪失のドロ沼的混沌にあえぐ中で、ついに彼岸と超越の普遍的世界を見出す。これこそ他のどこにも誕生し得なかった深さと世界性を持つ高度宗教で、それが彼らの苦しみに「意味」というものを与え、彼らを蘇生させた、というのです。それは民族的苦難を背景にした「創造的少数者」、あるいは個人の手によるものだったけれど。これがトインビー博士の検証のサワリです。話が大きくなりましたが、大変興味深く、またうなずけるものじゃありませんか!

◆恵まれたお坊ちゃんの国?
 ここで思いが及ぶのは我が国民の苦しみはどの程度か、ということです。日本は恵まれたモンスーン地帯に位置し、苦労知らずのお坊ちゃんたちの国だといわれます。だからキリスト教なんか分かるはずがない、という思いが、たとえばあのイザヤ・ベンダサン(ユダヤ人の名を借りて語った文筆家山本七平氏)なんかにあります。「日本教キリスト派」が精々だ、などという蔑称に反発するのも、お坊ちゃん育ちの強がりだ、と一蹴されそうです。
 でもきょうは皆さんと御一緒に、私たちの民族的な歩みをよく振り返ってみた「いのです。確かに「ひ弱な花」かもしれないけれど、それだけに少なくも、あの幕末の「黒船来襲」以来の大混乱と苦闘は、先ほどトインビーの指摘した文明間の闘争の(スケールは小さいけれど)新たなヴァージョンのような気がしないでもありません。

◆黒船以来の苦闘をたどって
 わが国も、鎖国を解いて以後、予想だにしなかった圧倒的に優勢な西洋文明の非常な衝撃と圧迫の中で、「和魂洋才」を合言葉に必死で戦ってきたのですが、ついに無謀な戦争に訴え敗戦。その後も懸命な復興努力を続けた歩みは、やはり苦難の連続でした。その百数十年というものは、国はもちろんのこと、どんな人々の心中にも、絶えず激しい嵐が吹きまくっていた年月ではなかったでしょうか。
 背は低い、国土は狭く資源もない、でも誇りをもって世界を堂々歩きたい、これが近代日本の国民的悲願でした。でもこのために流した先輩たちの血と汗と涙は決してわずかのものではなかった。今だってそうです。たとえば問題のTPP交渉や、サッカー・スケートなんかのスポーツ選手の活躍、あるいはあのオリンパスの企業犯罪。社長さんに20年間も直言できる人が誰もいなかった、という日本的体質にはあきれ、「神不在の風土」も感じます。が、こうして、経済界も文化そのほかの世界でも、私たちは長く相当の無理を重ねてきているのです。いつも何かに追われているようなせかせか齷齪の生活をまだ改められないでいるのですから!

◆丸裸にされた日本
 そこへきて今度の大震災、津波や原発の試練です。オウム事件や阪神の震災の時も、私はこの国が精神的にも物質的にも丸裸にされたように感じましたが、今回ははるかにあれ以上です。私たちはこの裸を覆う木の葉すらなく、まだ立ち尽くしている感があります。この国土も文明も、実に営々たる努力で築かれたものです。それが一瞬にして瓦礫化してしまうのです。自然は、ここにある花も美しいように、我々はどれだけその恩恵を受けているか分りません。短歌俳句もすばらしい世界です。でもその自然の本質には、かくも荒々しく残忍無比でどうにもならない面があることを知らされました。

◆砂上の楼閣だった
 呆然とする中で思います。私たちはこの素晴らしい現代文明の世界にも、また豊かなる大自然界のいかなる場所にも、私たちの魂を安らわせることは出来ない。その表面的な姿に欺かれ、このたびの悲痛な体験を空しくしてはならない、と思うのです。 
 今回明るみに出されたのは、この国が結局「砂上の楼閣」であった、ということ。先輩たちの幾多の獅子奮迅の努力にもかかわらず、です。今ようやく私たちも、このことに気づき始めているのではないでしょうか。そこで、これからこの国をどういう精神的基礎の上に建てていくか、決して再び瓦礫化しない頑丈無比の岩の上に新しい日本をどうして築いていったらいいか、これが実に大きな課題であります。

◆らくだが針穴をくぐるチャンス
 苦悩の中でこそ深い信仰が生まれる、というのが今日のテーマです。ここまで、即ち「黒船」から敗戦と大震災まで苦しんできた同胞たち、「無宗教」を気にもしてこなかった人々も、ここへきて宗教的なものの必要を感じ始めているのではないでしょうか?たとえば聖書にある有名な「迷える羊」の話、飼い主から離れた羊ほど悲惨な姿はありません。行き倒れ、赤肌を露出し、傷だらけで、息も絶え絶えであるというのです。
 あるいは今絶妙に思うのは、富んだ人が天国に入るのは、なんと「らくだが針の穴をくぐるよりもっと難しい」という話。これを聞いた弟子たちはぶったまげてしまうのですが、どうでしょう、これは今こそ被災者のみならず、多くの日本人に深い共鳴と慰めを与えるものではないでしょうか?自分が「無」に等しい存在だと深く自覚させられてこそ、救われるというのですから。

◆近代日本の救いのために
 優れた宗教―そこから芸術や文化も花開いたのですがーは、民族的な深い苦悩から誕生した・・とすれば、これはここまで苦しんできた今の日本人にも大いに示唆的です。もうエコノミック・アニマルなんて呼ばれたくありません。目指すは深い精神性豊かな国、そのために建てあげる堅固な岩を見出すことです。 このためには宗教の側の大いなる覚醒が必要です。父祖以来の国民的苦悩にいかなる「意味」を与えることができるか、それによって日本の近代は救われるのです。それによって、あの大戦や災害の犠牲者一人ひとりの命に意味が与えられるのです!

 長くなって失礼しましたが、最後に無宗教といわれるこの国の霊性精神性も、少し長いスパンで見れば、決して低いものでないことは既に知られています。それは和辻哲郎、亀井勝一郎、あるいは鈴木大拙   らの著作によってもよく分かります。師走に入ったせわしない日々ですが、今年は以上のような国民的課題にじっくり思いをひそめてみたいと思い、一筆させていただきました。失礼を御容赦ください。
(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)
  

Posted by 矢沢牧師 at 14:31

2011年05月19日

「津波の洗礼を受けた聖書」 NHK番組紹介

  (耳よりの情報です)

ケセン語福音書の山浦さん
        出版社の熊谷さん NHKTV「心の時代」に
                              荘内教会牧師 矢澤 俊彦

みなさんご存知の山浦さん、大船渡の医師で、10年近く前、福音書をケセン語に訳出、出版した方です。幸い津波の難をのがれ、お元気です。
 その出版を手がけたEPIX出版社は、大船渡の海岸近くにあったため社屋はすべて潰されてしまいました。それにもめげず、社長の熊谷雅也さんは再起しようと懸命です。
 この様子をNHKテレビが捉え、以下のように「心の時代」で放映する予定ですので、ご紹介いたします。友人その他にもお知らせいただくとありがたいです。           

 ★ 5月22日(日)午前5~6時 NHK教育テビ
 ★ 5月28日(土)午後1~2時 教育テレビ 再放送



(以下は「河北新報」 5月5日号 からの転載記事)

出版社経営 熊谷 雅也さん(58)=大船渡
―ふんばる 3・11大震災―
故郷の文化 次世代へ
―活字の灯 決して消さぬー

「大船渡は、自分が生まれた街。故郷の文化を本にして次の世代へ残していくのは、われわれにしかできないんだ」
大船渡市の出版社「イー・ピックス」。社長の熊谷雅也さん(58)は、4月上旬に移った同市大船渡町馬越の高台の新社屋で再起を誓った。
港近くの街中にあった元の社屋は、3月11日の大津波で流された。鉄骨造りの出版物倉庫は残ったものの、中にあった本5000~6000冊のほとんどが潮に漬かった。

三陸の海の魅力を紹介した本、大船渡など気仙地方で盛んだった採金の歴史などをつづった本。どのページをめくっても地域の文化が薫り立つ。
手塩にかけた「財産」が光を失っていくように見えた。しかし、不思議と悔しさはなかった。
「一度に全部をなくしてしまったからかもしれない。それに家族や社員は無事だったし、多くの人から励ましを受けた」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1979年に市内で印刷会社を創業し、2001年、出版に乗り出した。地元には自費出版を請け負う印刷会社はあるが、出版社はなかった。
うずもれた文化を掘り起こし「21世紀のグーテンベルク」になりたいと社の標語に掲げた。世界で初めて本を印刷した偉人が、熊谷さんと社員3人の目標だ。
計約1万部を売ったロングセラーがある。「ケセン語訳 新約聖書」全4巻。市内に住む山浦玄嗣医師が気仙地方の方言(ケセン語)に翻訳した聖書で、02年から04年にかけて刊行した。

震災後、この本が話題を呼んでいる。「大津波の洗礼を受けた聖書」として、全国各地のキリスト教関係施設などから注目を浴びているらしい。
「何が起こるか分からない。誰かどこかで、大船渡発の文化を求めている。」つぶれかけた倉庫にたたずみながら、ふとやる気がわいてきた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今は倉庫の中で、販売できそうな本を探している。ぬれた本を手に取り、パラパラとめくっていく。根気の要る仕事だ。
「乾かせば読める本もある。そういう本は少しでも救い上げ、読者の手元に届けたい」と言う。

新社屋は、自宅の敷地内に建てた。プレハブの簡素な小屋のようだ。だが、パソコンや簡易印刷機があって、何だってできるような気がする。
ただ、経営に対する気構えというか、心構えが以前とは違う。
「震災前は中小企業の経営者として、不景気の中でどうしようと、心配ばかりしてきた。」でも今は、生きている幸せを痛感し『今日もいい日だった』と、毎日が大切に思えるようになった」
震災後初となる本を、5月末か6月上旬には出版できそうだ。県外の人が原稿を持ち込んだ企画ものだ。「今後1年ぐらいで4、5冊は出版できる。会社の行く末を心配してくれた多くの人の期待に応えていきたい」
がれきの街の向こうに出版文化の灯はともっている。


山浦さんからのご連絡

NHK教育テレビ「こころの時代 ~宗教・人生~」で、「私にとっての 3・11」シリーズの一つとして、わたくしやカトリック大船渡教会の仲間の出演する「ようがす、引ぎ受げだ」という1時間番組 が放映されます。津波の災害を前にして聖書をどう読むかという問題を提示され、わたくしなりに考えたことを述べました。イーピックスの熊 谷雅也くんも出演し、津波の洗礼を受けたケセン語訳聖書のことなども 「お水潜りの聖書」として話題に出ます。録画はちょうど聖週間で、カ トリック大船渡教会の聖金曜日、聖土曜日の復活徹夜祭(当日は大嵐で した)、復活祭のミサも収録されました。

大船渡教会では5人の信者が亡くなり、約20家族(まだ正 確な数字が確認できないままです)が家を流されました。教会の建って いる丘は激浪に削られ、車庫や納骨堂が根こそぎ波にさらわれて破壊さ れました。
わたくしども大船渡教会の仲間にとり、「こころの時代」への出演は 2002年に「ケセン語で読む聖書」、2004年に「ヨハネからのたよ り―ケセン語訳聖書の世界―」に続く3回目となります。

  

Posted by 矢沢牧師 at 18:34

2011年05月16日

お花がすべて消えた国のはなし

       お花が消えた国の話          2011年5月16日
          (月曜礼拝カードNO。7  お話―裕子先生 脚色―延長)         ★ある国のお城にとてもプライドの高いいばりんぼうのお姫様がいました。いつもきれいな服を着て、入念にお化粧をして・・・自分はもう最高にきれいだ、とうぬぼれ自慢していたのです。だからすこしでもきれいな人にあうと、夜も眠れないくらい嫉妬心で苦しむのです。王様や家来もこれには大弱り、、でもどうすることもできません。
★ そんなある日、お姫様はひとりで散歩しているうちに、まだ来たことのない宮殿のおくの庭にやってきて・・・・そこで呆然として立ちすくんだのです。・・そこには見たこともない美しい色とりどりの・・・そう「お花」というものを見たのです。
★ えっ、お姫様お花見たことないの?そうなんです。どうして?それはね、さっき言ったでしょ、自分が世界一美人だと高慢になってるお姫様がお花を見たら・・きっと頭がおかしくなっちゃうんじゃないか・・・王様も家来もそれを心配してお城の中には一輪の花もおかないようにし、ただこの奥の庭だけでそっと育てていたんです。
★ 案の定、お姫様はびっくり仰天です!「なんです、これは!この色、かぐわしいにおい、あらゆる形の魅力・・あまりのきれいさに圧倒された姫は、
その場で気を失ってしまったのです!お城は大騒ぎとなりました。やがて気がついた姫が聞きました。「この花というのはここだけにあるのか?それともお城の外にもあるのか?」・・・困った質問ですが、もう正直に答えるほかはありません。
★ 国中にこんな美しいものが咲き乱れていることを知ったお姫様は怒り狂いまし
た。「なんでわたしに隠しておいたのか、卑怯者!」と家来を叱りつけ、さっそく国中からすべてのお花を一掃するように命令を出したのです。仕方がありません。大勢の家来が出かけていっておふれを出しました。みんなびっくりしたり怒ったり文句を言ったり・・・でもしばらくのうちに、この国からすべてのお花が消えてしまったのです。
★ さてそれからこの国はどうなったと思います?お庭や道路や畑だけじゃない、
お家や学校、病院やお店や散歩道や・・・もうどこへ行ってもお花の姿がないのです。段々みんな機嫌が悪く怒りっぽくなり、すぐけんかをするようになりました。みんな疲れて病人がふえてきます。歌や踊りもなくなり、結婚式も静か・・・火の消えたような国となって・・笑いのかわりに争い、思いやりのかわりにドロボーが横行する・・くらい暗黒の支配するところとなってしまったのです。
★ その様子がやがてお姫様にも伝わりました。何晩か眠らず考えこんだ姫。そしてやっと気づいたのです。「そうか、お花という不思議なものは、みんなを明るくする
ために天の神様がこの世に下さったもの。その美しさはすばらしい。自分がきれいだ、なんて自慢していた私はどんなにみにくいひどい人間だったことか!」 こう気づいた姫はみんなに謝るとともに、国中をお花でいっぱいにするよう命じたのです。
お花が消えた国の話          2011年5月16日
(月曜礼拝カードNO。7  お話―裕子先生 脚色―延長)         ★ある国のお城にとてもプライドの高いいばりんぼうのお姫様がいました。いつもきれいな服を着て、入念にお化粧をして・・・自分はもう最高にきれいだ、とうぬぼれ自慢していたのです。だからすこしでもきれいな人にあうと、夜も眠れないくらい嫉妬心で苦しむのです。王様や家来もこれには大弱り、、でもどうすることもできません。
★ そんなある日、お姫様はひとりで散歩しているうちに、まだ来たことのない宮殿のおくの庭にやってきて・・・・そこで呆然として立ちすくんだのです。・・そこには見たこともない美しい色とりどりの・・・そう「お花」というものを見たのです。
★ えっ、お姫様お花見たことないの?そうなんです。どうして?それはね、さっき言ったでしょ、自分が世界一美人だと高慢になってるお姫様がお花を見たら・・きっと頭がおかしくなっちゃうんじゃないか・・・王様も家来もそれを心配してお城の中には一輪の花もおかないようにし、ただこの奥の庭だけでそっと育てていたんです。
★ 案の定、お姫様はびっくり仰天です!「なんです、これは!この色、かぐわしいにおい、あらゆる形の魅力・・あまりのきれいさに圧倒された姫は、
その場で気を失ってしまったのです!お城は大騒ぎとなりました。やがて気がついた姫が聞きました。「この花というのはここだけにあるのか?それともお城の外にもあるのか?」・・・困った質問ですが、もう正直に答えるほかはありません。
★ 国中にこんな美しいものが咲き乱れていることを知ったお姫様は怒り狂いまし
た。「なんでわたしに隠しておいたのか、卑怯者!」と家来を叱りつけ、さっそく国中からすべてのお花を一掃するように命令を出したのです。仕方がありません。大勢の家来が出かけていっておふれを出しました。みんなびっくりしたり怒ったり文句を言ったり・・・でもしばらくのうちに、この国からすべてのお花が消えてしまったのです。
★ さてそれからこの国はどうなったと思います?お庭や道路や畑だけじゃない、
お家や学校、病院やお店や散歩道や・・・もうどこへ行ってもお花の姿がないのです。段々みんな機嫌が悪く怒りっぽくなり、すぐけんかをするようになりました。みんな疲れて病人がふえてきます。歌や踊りもなくなり、結婚式も静か・・・火の消えたような国となって・・笑いのかわりに争い、思いやりのかわりにドロボーが横行する・・くらい暗黒の支配するところとなってしまったのです。
★ その様子がやがてお姫様にも伝わりました。何晩か眠らず考えこんだ姫。そしてやっと気づいたのです。「そうか、お花という不思議なものは、みんなを明るくする
ために天の神様がこの世に下さったもの。その美しさはすばらしい。自分がきれいだ、なんて自慢していた私はどんなにみにくいひどい人間だったことか!」 こう気づいた姫はみんなに謝るとともに、国中をお花でいっぱいにするよう命じたのです。
  

Posted by 矢沢牧師 at 15:58

2011年05月09日

迷子になったクマ太郎ー母の日の保育園礼拝メッセージ

          迷子になったクマ太郎くんー母の日に  2011年5月9日
             (月曜礼拝カードNO.6 お話―丸山りえ先生)
★ 「お母さん、なあに、お母さんっていいにおい、洗濯していた・・・」・・・」
森に住む熊の子どものクマ太郎君は歌が大好き、そしてお母さんが大好き。きのうは「母の日」だったので、たくさんお手伝いをしたり肩たたきをしたり、おしゃべりしたり・・とても楽しい1日でした。でも少し前、こんなことがあったんです。
★ 「クマ太郎、きょうはお母さん忙しいから、町までお使いに行ってくれない。いつ
か行ったパンやさんまで。でも町は大きいから、すぐ帰ってくるんだよ」。
★ クマ太郎はお母さんのお手伝いができるなんてうれしくて仕方ありません。つい
鼻歌が・・「うれしいな、たのしいね、ひとりのお使いうれしいね・・・」。
「そうか、初めてのお使いなんだねえ、クマ太郎も大きくなったんだね、感心感心・・」とほめてくれたお店のおじさんです。・・・さあここまではよかったんですが・・・。
★ おじさんにほめられてのぼせてしまったクマ太郎。もともと遊び好きで探検好
き・・それに天気はいいし、第一町にはいろんな珍しいお店はあるし、にぎやかだし、大好きな車がどんどんやってきます。面白くて面白くて・・・興奮してあの「働くくるま」の歌を歌い始めた・・・。それから花やさンゃ時計やさんや大工さんや・・なんでも打ってるマーケットまで・・。あまりの面白さに、お家に帰ることを忘れてしまったのです!
★ 「しまった、もう暗くなってきた。おなかもすいちゃった・・・でもお家はどこなん
だ・・」。道がわからなくなったクマ太郎は必死でした。通る人に聞きました。「森はたくさんあるよ、どこの森なんだい?「お母さんの名前だけじゃわからんよ」・・おまわりさんも出かけて留守・・通る人は少なくなり、あたりはすっかり暗くなって・・疲れたクマ太郎はとうとう道ばたに倒れてしまった・・泣く声も出てきません。ああかわいそうなクマ太郎・・さあみんなも応援してnね・・「がんばれがんばれ」って。
★ いつの間にか夢を見ていました。それは大好きなお母さんの夢です。お母さんがおうたを歌っています、「子どものすきな王はどなた 子どもの好きなイエス様よ・・」。それを聞くと急に元気が出てきて「ぱっ」と眼が開きました。
 そのときです!その歌がむこうから聞こえてきたんです!耳をつねってみたクマ太郎(痛い、これは夢じゃない)。ソノ声は・・あの大好きなお母さんです。「l子どものすきな・・」の声の方に走り出すクマ太郎。ああよかった、よかった、と抱きしめてくれた。あったかいお母さんの胸。二人はどんなに喜びあったことでしょう。
りえ先生は「こんなお母さんをくださったイエス様にどれほどお礼を言ったらいいでしょう」と結びました。さらに私はこうつけ加えたい。「このお話で迷子になっているのは私たちです。大人も今みんな帰る家がわからない。そういう私たちを必死で傷だらけになりながら探し回っていてくださるのがイエスさまなのです(園長)。
  

Posted by 矢沢牧師 at 16:27

2011年05月04日

みじめな盲目の乞食ーこれは人類の代表です!

     みじめな乞食の中に神様が隠れています   2011年5月2日
             (保育園月曜礼拝カードNO.5 )
すみれくみさんもきょうから一緒。園長先生がこんなお話をしてくれました。
★ トマス村にウッドさんという木こりがいました。ある夕暮れ、森の入り口でなんと泣
きじゃくる赤ちゃんを見つけたのです。心のやさしいウッドさんはその男の子を連れてかえって、奥さんとお世話をし、「よーし、わしらの手で育てよう」とトマと名づけたのですが、・・・、そのうち気づいたことがあります。なんとトマの目は見えなかったんです。「まあいい、これも神様のおぼしめしじゃ」、と懸命に育てたのです。
★ トマはお手伝いもできないので、よくお庭で小鳥の声を楽しんでいるうちに自分で
歌を作ってよく歌っているのです。近所の人たちは、そのきれいな声にききほれています。そのうちにトマは「ぼくを町の通りにつれてって」と言い出した。そして通る人や動物の声を聞きながら、それをお歌にして歌い始めたのです。その美しい声に魅せられて近寄ってきた人たちがトマの帽子にチャリンとお金を入れてくれるようになりました。
★ トマはそれを父母にあげて少し気持ちが楽になりました。が、段々大きくなってく
ると、いつもお世話になっているのがつらくなって・・・ある日どうどう黙って家を出て遠くの町に行ってしまったのです。
そこで橋の下で寝起きしながら街角で歌うのですが、今度は誰も近づいてこない。どうしてかなあ・・それは頭も服もほこりだらけで臭かったからでしょう。そのうち「あっちへ行け」と石を投げたり、つばきをかけられたり、「親の罪をかぶせられたんだろう」などのうわさ話。
★ 悲しくなって何度も泣いたトマです。・・ある時いつになく大勢の人たちがやって
きたのですが・・・誰かの声・・「イエス様、あそこにきたない乞食がいますぜ。どうかこっちを遠回りしていきましょう」。すると、「ばかもの、お前たちは神様のことが全然わかっとらんぞ」の声。
そしてその声の主が静かにトマのところへ、「トマ、つらかったろう、お前のことは天の神様がしっかり覚えているぞ・・さあ、私と一緒についておいで」、と手をとられました。ソノ優しさにわけもわからずついていくと、近くの池の水をすくって泥をつ
くり、それをトマの目に当てたのです。
★ するとどうでしょう。トマの目が少しづつ開いていくではありませんか。驚き畏れるトマ。「わかっただろう、神様はお前を特別かわいがっとることが・・」。びっくりして反省したのはお弟子さんたち、「イエス様、ごめんなさい、ひどいことを言って」と。・・それからトマはどうしたでしょう、イエス様にこういわれました、「さあ早くあの村に帰りなさい。お父さんたちが心配してるよ」。・・・見えるようになったトマに再会して、ウッドさんたちみんなもイエス様の弟子になったのです。
  

Posted by 矢沢牧師 at 16:51

2011年05月04日

人間は人のために役立ちたいのです!

          人間は人の役にたちたい
          利他心の活性化で閉塞社会を変えよう
                                 矢澤 俊彦
              人間の活性化をもたらす救援活動
このたびの震災被災者に対し、国内外で多くの人々のさまざまな救援活動
がとても活発に展開されています。ボランティアをする人々も意気込んでこれを行い、被災者たちもそれを深い感謝で受け止めています。「こんなひどい災害の中で、生き抜こうとしているこの人たちの勇気はたいしたものと感心した」とか、「遠くからこれほど大勢助けにきてくれるなんて・・・生きる元気が出てきます」・・などの声が連日伝えられています。
私はこの様子を見聞きしながらよく考えるのです。それは・・・私たち人間が本当に「活性化」し、強い「生きがい感」を感じるのはどういう時であろうか、(誇張して言えば)死人が生き返ったようになって生き生きと生き始めるようなことがあるとすれば、それはどんなときであろうか、こういう人間に関する興味深い問いです。

               他人に役立つときの生きがい感
今私の得ている答えを端的に言いましょう。
私たちが一番生きがいを感じるのは、なんらかの意味で、自分が他人のために「役立っていること」を感じるときで、その「有益感」が強いほど、喜びも大きいということ。逆に、自分が「役立たぬヤツ」だと思う程度に応じて、生きがい感も弱く乏しくなっていくのではないか。震災救援に駆けつけたいけれど、そのための体力もお金もエネルギーもない・・・そう思ってひそかに落ち込んでいる人々は、多分救援参加者よりはるかに多いのではないでしょうか。一方に元気の出た人がいる。しかし他方よけいみじめになっている人もいるのです。
以上のことは、考えてみると常日頃の生活でも容易に見てとれそうです。たとえば八百屋さんでも魚屋さんでも、「この間のあれ、とてもおいしかったよ」といわれると、それはよかったとうれしくなるし、お医者さんや看護士さんは、よくなって退院する患者さんを見送るとき、ああこの仕事についてよかった、と幸せな思いを味わうのではないか。多分これはどんな商売だって同じでしょう。決してお金もうけだけが目的ではないのです。

                  実に高貴で美しい人間性が
でも気づいてみると、これは大きな発見ではないか。人間は自分の幸せ
だけを追求しているように見えます。でももっと奥深いところでは他人の幸せを求めている!世界のどこかに不幸な人々がいると、自分の幸せもどこか損なわれるような気持にもなる。そこでとにかく、何かのために自分が「用いられ、役に立てられ、それを喜んでもらいたい」と、心のどこかで強く願っているとしたら・・・・・。
人間とはなんとすばらしいもの・・・崇高で高貴で、実に絶賛に値する生き物では
ありませんか。ひとことにまとめると、「人間は他者に自己を与え、自分をささげ切るとき幸せを感じる」「私たちは、自分を必要としてくれる人を必要としている」「人は実に他者への“愛”に生きるものである」と。

                でもこの殺伐たる状況はどうして
さて、これからが問題です。もし上に述べたことが正しいとするならば、大
きな疑問がわいてきます。それは・・どうして私たちの日常は、かくも“悶々”たるものであるか、自分が世の中のために役立っているかどうか確認できず、いわゆる「精神的閉塞状態」にある平成日本。多くがどこか「気力」をなくし、夢も希望もしぼませながらも、どこかで「真の活気」を懸命に求めているのでは・・・。
でも目につくのは「自己中心」であり「冷たい無関心」であり「無縁社会」の中での殺伐たる状況であり、果ては戦争です。・・・これはいったいどうしたことだろうか、という疑問です。
これは大きな問題ではないか。私たちは他者に思い切り自分をささげることで幸
せになるようにできているのに、ふだんはそれを生かし得ず、とかく逆を行っている。これは大いなる矛盾ではないでしょうか?ここら辺をよく考えてみなければならないでしょう。

                 深刻なニーズが見えない日本
私は次の3つのことをとりあえず述べて、読者の皆さんのご意見を伺いた
い、と思います。
その第1は、開発が進んだと見える現代日本。でもその日常を襲っている様々な災いや悲しみが見えにくくなっていることです。助けをひそかに求めている人々は無数にいるのに・・・不思議なほど声にならない(出さない)し、姿も見えない。ごみひとつ落ちていない道路のように。それゆえせっかくインプットされている「利他心」(利己心の反対)を発動する「相手」も「機会」も見出せないでいる。
ちょっと注意すれば、「社会的無用感」に悩み、「自分はここにいないほうがいいのでは」、と感じている人々だらけの死屍累々たる模様が見えてくるはずですが・・・。

その第2は、やはり今の日本社会の相変わらずの多忙、効率本位の生き方、経済至上主義、競争主義・・・こういうものの激しい渦の中にいることでしょう。こういう圧倒的な傾向の中で、私たちはつい自分のことだけでいっぱいになり、「役立たずは邪魔だ」というような考えになっている。そっして結局は弱肉強食の殺伐社会の構成員となってしまっている。阿鼻叫喚の巷を見て見ぬふりをして・・・これが私の観察です。

                利他心がひ弱、矛盾の中の人間
第3は賦与されている他社への思いやりや善意が「ひ弱」であること。それゆえ多少の抵抗や障害、悪意や不愉快な経験や事情の変化、相手の出方、さらに時間の経過などに負けてしまいやすいことです。そこでせっかく芽生えた隣人愛の炎も、次第にかき消されてしまうかもしれない。ああ、この人間愛がもっと強く激しいものであったなら・・・。今の社会を席巻している非人間的悪条件・・・目に見えない大津波の被災者救済に立ち上がれるでしょうに。

                 状況脱出の方法は?
以上の分析が正しいとするなら、現代の人間は本当に大きな矛盾の中で、呻吟しているのです。何かのために役立ちたい、と強く願いながら、その機会も相手も見出せないで悶々としている。職業(仕事)が与えてくれる生きがい感は不十分であるし、誰だっていつまでも働けるわけではない。さてこの状況から脱出する方法は?私なりに考えてみたのは以下のことです。
その理由の第1については、「悩む者たち、できる限り大声を出せ」といいたい。ちっぽけな誇りも、遠慮も迷惑も「サムライ精神」もかなぐり捨てて・・・。
第2は国民こぞって暮らし方を変え、幸せについての価値観を大きく変えること。「役にたつ」「焼くにたたない」とはどういうことか、よほど考えねばなりません。精神的に瀕死状態にある多数の同胞を救う道はこれしかないと思われます。
  そして第3にあげた「愛のひ弱さ」の克服が、何といっても最大の課題だと思われます。そしてこの難問解決は、結局人間の努力の及ぶところではなく、つきつめてみると、やはり力ある大宗教に期待するほかにない、と私には思われます。

                  新しい愛を充填するキリスト
  キリスト教では、この「他者への愛の衰弱」は、人間が創造者である神様の愛から離れて「一人歩き」し始めたことに起因すると考えています。そこで自力を頼る自己中心主義の修羅場が現われたのです。ただ我々の心の深みには、隣人への愛によってこそ充足するという高貴な傾向が消えずに残っていること、これが今回明らかにされつつある点です。聖書の人間理解は、この意味で「性善説」に立ちながら、「性悪説」へと誘われる現実を指摘しています。

そこで救世主キリストは、弱っている愛の力を増強して人類すべてに注ごうとしておられるのです。
 それゆえ彼のまわりに集まってきたのは、当時の社会で人間扱いされていなかった「のけ者たち」であり、「無用感」に悩む病人や障害者でありました。まさにそういう生ける屍とも見えた人たちが「有益感」に満ち、なぜか不思議な生きがい感をもって嬉々として生き始めたのです。
  以上長くなりましたが、このたびの被災者救援活動を見ながら導かれた思いを記させていただきました(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)。
  

Posted by 矢沢牧師 at 14:11

2011年05月01日

北インドの貧しい村で


 インドで見えてきた自分のごまかしや偽り
                     荘内協会保育園長 矢沢俊彦
(以下はこの1月下旬、三浦照男(農業)宣教師を訪ねたときの感想です)

★ インドの貧民に触れるのは大いなる体験です。そこで私たちは「丸はだ
か」にされます。追いはぎにやられる、という意味ではもちろんありません(もっともそういう可能性もありますが)。それは「はだかである自分」をそこで見出す、という意味です。ですからインド(人)は、何も故意にやっていない。ただありのままの生活を見せてくれるだけです。
でもふしぎです。そこで聖書のことばがピーンとひびいてくるんです(たとえば黙示録3章14節)。インドの農村の光景は、まさにイエス様が活動しておられた世界そのもののようなのです。物乞い、障害者、らい病人、お金持、さまざまな宗教・・・その他みんなそろっています。

★ 日本にいて自分というものが分からなくなっている方には、あの農村行
きを勧めたい気がします。太古の時代を思わせる粗末な石造りの家に住む貧しき人々。ほとんど家財道具など持たず、食べ物着物にいつも不自由している。しかしその中で考えさせられるんです。本当に貧しいのは彼らより私たちのほうではないのかと。
私たちは確かにいろんなもので装い、つくろい、飾り立て格好はつけてはいます。でもあの貧民の前に立つと、自分達の生き方、、人間関係、生活力、そして信仰などにおいて自分の非常な貧しさやごまかし、恥ずかしさや罪悪感を感じてしまうのです。自分達の姿の偽りがすっかりあらわにされてしまう思いがする、ああ、これまで何をしてきたのか、これらの「偽装」の手立てをつくろうのに汲々としてきたのか、物心ついてからの営々たる努力は何を目指していたのだろう・・・などとうなだれたり考え込んだり・・・でもそうして自分の姿が見えてくるのは何よりうれしいことじゃないか・・・と思い返したり・・・ああいずれにしても、これは本当に手厳しいスタディ・ツアーであるなあ、と、ひそかに感じていました。

★ たとえば私はこうも思いました。もし自分があのインドの町や村に放り出
されたらどうであろう。金が尽きれば、多分何もできまい。リキシャの運転なんかむろんわずかでもムリ。まず物乞いくらいだろう。でもそれもできまい。あれだってかなりの習練が必要なのだ。とても生きながらえることはできません。
 今の話は過酷に過ぎるかもしれませんが、それはわたしたちの置かれた状況を鮮明にしてくれているのです。・・・・すなわち、我々はこの世界に投げ出され捨てられ、誰からも顧みられない、守護者はおらず、あらゆる危険にさらされている・・・地上をはいずりまわるあわれなる虫ケラではないか。これが私たちがおかれている生の状況なのです。

★ きびしい気候や生活環境の中で、インドの貧民は、自分達の命がどんな
に危ういものか、それがどれほど死と隣り合わせなものか、それはもう日々体感しているのです。リキシャ運転手の過酷さが象徴的です。あのとにかくすさまじい交通の恐るべき雑踏の中で、ほんのわずかな不注意やミスが命取りになるのですから。

★ であればこそでしょう、インドの人々は宗教というものにあれほど真剣に向き合っているのだ、と思われてなりません。ヒンズー教徒(国民の80%)の日常の行、瞑想・祈り・喜捨、そして巡礼やガンガ(ガンジス河)沐浴の有様に接して、私は何か異様な必死さを感じます。彼らの素朴ともみえる信心を軽んじることができるでしょうか?人口も約12%いるイスラム教徒も同様です。ああいう懸命さに比べれば、私どもを含め、多くの日本人の信仰生活なるものは、まるで「児戯(こどもの遊び)」に等しいかのようなのです。

★ インドが暴露してくれた私たちの姿。それはみじめな「はだかの王様」であ
りなおよく見れば、「血の中を転がりまわっている」(エゼキエル書16章6節)危うい生命体にしか過ぎません。で、そういう私たちは、ただ天の神様のあわれみによって拾い上げられ、洗われ着せられ食べさせられて、やっと今日あるを得ている・・・この大いなる事実をしっかり味わっていくなら、私たちはもう気もおかしくなるほど、大いなる感謝感激で包まれるでありましょう。
 結び  私たちの偽装や思い上がりを明らかにしてくれたかの国の貧民たち。「私たちが貧しい人々にどれだけのものを負い、教えられているか・・・それは天国に行ってわかるでしょう」(マザー・テレサ)。
彼らに深く感謝しながら、これから私たちも人間として少しでもごまかしのない生き方をしたい、とあのガンガの水を眺めながら思いました。そして(困難なことですが)弱い人たち貧しい人たちを踏みつけないで生きていくことも・・・。

  

Posted by 矢沢牧師 at 00:23

2011年04月30日

復活祭礼拝で感じたこと

         復活祭礼拝に感じたこと
            ーまさに大輪の花が乱舞しはじめたー
さる4月24日ののイースター礼拝、すごく感動的でした。震災で落ち込んでいた日々の中に、「ぱっ」と大輪の花が思いっ切り開いたような喜びの爆発を感じました。多分庄内では桜も満開だった?でしょうが、それら全部に優って輝く力強い生命がやってきた、という感じです。こんなにすばらしい礼拝がこの日本で持たれているなんて・・・教会の将来にも期待がふくらみます。
 
 まずあの全体でちょうど1時間くらいでしたでしょうか・・冗長に流れず、きりりとしまる中でのプログラムの展開と演出。あの音楽的祭典の構成には、実に心憎いばかりのうまさと熟練が隠されてますね。無論礼拝ですから、基本的には人間的作為でどうとかできるものでないことを踏まえたうえで、やはりあの発想と吟味された内容とパワーは、図抜けて秀で、おそらく世界のどこに出しても恥ずかしくないものです。

私はこんな集会が突然現われ出たとは思いません。多分牧師先生を中心に、みんながいろいろ試行錯誤を重ねられてきたのでしょう。会衆にも若い方が多くいて、讃美の声もよく響いていましたね。司会の導き方も適切、交読文も新作ですね。時宜にふさわしいものに、との工夫ありです。

さて静寂の中で導入部の賛美歌を、あのメッセージにふさわしく独唱者が実に効果的に歌いあげてくれましたね。「白百合が囁きかける昔」
のこと、それが今大事件となってみんなの耳がつんざくばかりに展開され始めた・・ああ、とうとうイースターがやってきた、との思いがどの人の胸にも広がったことでしょう。
その後の中山さんの喜びの熱唱は、会堂全体がゆり動くほどでしたね。あれはすごかった。まさに矢澤先生が適確に紹介されたように、「喜びの天使」そのものでした。「み墓をいでて・・やみの力を破り・・」、「主イエスは死に勝ち・・」で、私は自分の悲しみに「とどめをさされた思い」でした。まさに「死にたる我をも」生き返らせられた思いです。こんな礼拝に出ると、多くの死人も復活するに違いありません。

 遅れましたが、牧師先生の説教、簡潔に、しかし悲しみのどん底にいる人を引きあげるものでした。先生はもう50年近くも、マリアとあの墓におられるとのこと。なるほど、彼女と一緒に悲しんで、すっかり「透明」になられている人格を感じましたよ。「大人のさびしさがわからないのが子どもなんだよ」と切り返されたユーモアから始まり、瓦礫の中で父母に会えたこの日の喜び、これなくして無明の闇に閉ざされる国の話、「汝の墓よ」り出よとの主の一喝、復活っを確信しないでの子育ては「悲しみの種まきをしていること」、会者定離の解決がイースターであること、どれも印象深く、こんな話は誰にでもできるものではありません。みなさんをとても羨ましく思いました。「天の力にいやし得ぬ悲しみは地にあらじ」が耳にこびりついています。感謝(S/Y)。




  

Posted by 矢沢牧師 at 18:27

2011年04月30日

子育てのヒントから

   子育てのヒントから (園長発)   2011年4月28日
                        荘内教会保育園長矢澤俊彦
 昨日(5月26日)の保護者の集まりでお話したことの要約です。子育ての困難なこの時代です。私としても、奮闘中のお家のみなさんに何かヒントになるものはないか、と考えた結果です。長いお話ではなく、ちょっとしたキーワードのようなものから、考えをめぐらしてみるのもいいのでは、と思っています。「子育てはもう関係ない」、という方にも、人とのコミュニケーションという点で、何か参考になるかもしれません。

1 味方になりたい 園や職員は、みなさんともっと親しくなりたい、と思っています。皆さんの本当の味方になって、子育ての応援をしたい、と思っています。遠慮なくお互いにモノが言える関係を結びたい、と思っています。

2 400人が必要なのです 一人の子供が人間らしく成長していくには、親たちがどんなにがんばったって、それだけで決してうまくはいきません。まず400人くらいの村人(周囲の人々)全体の力が必要だという。これはあのヒラリー・クリントンのことばです。遠慮なく、みんなの助けを求めましょう。

3 けなげな適応 すばらしい適応力 みなさんのお子さんの力はすごい。心配だった保育園生活にも、すっかりなれてきています。家庭と違うこの広くて大きい世界に、けなげにも自分を適応させている。彼らの小さいけれど、しっかりした心を抱きしめてあげてください。それに比べると、私たち大人の方が、そういう力や、仲間づくりの能力は「退化」していませんか?

4 泣く子は愛されている 母親などから離れるとき、泣いてしまうのは当たり前。それだけ「愛着関係」ができていたことを喜んでください。母親としっかり結ばれることから安心感が育ち、段々まわりの人や友達に興味が出てくるんですよ。
 ご機嫌です もうみなさんのお子さん、とても機嫌がいい。いい笑顔をしてます。よく笑ってくれます。先生たちも気分がいい。それはお家の方が懸命に愛情を注いでいるからです。ありがたいことです。

5 生命力がインプットされて 胎児が成長しこの世界に生まれ出る。そして「誰も教えないのに」笑い、泣き、眠り、ことばを発し、寝返りをうち、手足を動かし、はいはいをし、ついに歩くようになって・・・・。この生命の不思議さ。実に感動的です。驚き、感嘆し、拍手を贈るばかりです。神様の備えられたこの力があればこそ、赤ちゃんは成長していく。あせることはありません。その姿をじっくり見て楽しもうではありませんか。

6 親は「庭師」(園丁) 子育ては草花や作物を育てるのに似ている(保育学の父フレーベルのことば)。よく観察する。あせらない。時のくるのを待つ。そしてその育ちのひとつひとつの段階を楽しむのです。むろん、水をあげたり、日光や風に当てたり、細かい心配りは必要ですが・・いわゆる「放任」(ただほおっておくこと)とは違います。
お花なんか、狭い場所でも育てていると、何かヒントが得られるかもしれません。

7 少ないほどいいもの 号令、命令(口調)、行動の指示、うるさい注意、禁止、しかること、おどし、威圧、こわい顔つき・・・これらがよくはないことはおわかりでしょう。イソップ物語の「北風」のようでなく、「太陽」のように、さんさんと暖かな光を注ぎかけることができたら・・・もう子育ては大成功です。
 貝と塩水 懸命に伸びようとしている小さな命に、大人の側からあまり「介入」しないことです。内部には、神秘的ないのちが躍動しています。貝を塩水につけておくと、自然に口を開きます。でも力であけようとすると、体をこわしても、絶対に開きません。

8 自主性と指示待ち人間 やかましく口を出し、手を出し過ぎていると、その子の内面性がそこなわれます。自分で考え、自分で行動することができなくなります。「よかれ」と思ってする親心がアダになる。いわゆる「自主性」のない人間になってしまいます。言われたことしかしない大人になる危険性大です。
見かけはぐずでも ぐずでのろまのように見えても、待ってあげてください。彼らの内部はしっかり動いているのですから。

9 自由保育というもの この保育園では、子らにできるだけ「自由」を与えています。遊びの選択、遊べる環境、十分な時間空間、遊びの相手選び・・。それをできるだけ保証してあげる。内側から出てくる思い、欲求や衝動を大事にしてあげるわけです。先生が「これからこれして遊びましょう」と設定してかかるのではありません。こういうやリ方を「自由保育」とか「子供中心保育」と呼んでいます。これには多くに知恵や工夫、注意深さが入用なので、そう感単にできるものではありません。

10 自信ある人間に どうしたら堂々たる自信をもって大事な生涯を送ることができるでしょうか?これはすべての親の願いでありましょう。当園の答えは。子らに最大の自由を与え、周囲世界を探検させよ。自分の目や耳、五感を駆使して面白いと思うものにぶつかて遊びこませよ。。興味関心をひくものがたくさんある環境をととのえよ。自然も遊具も友達も・・。そういう経験を通して、まず自分の目や耳や味覚などに自信を持たせるのです。
そうしてそれをことばや絵画や政策物などで、力強く表現していく。こういうことを積み重ねていくことです(当園の絵画造詣保育の考え方の基本)。

11 いたずらのすすめ 幼児は面白いことしかしません。自分で発見した興味あることしかしたがりません。彼らには「いたずら」とか「迷惑をかける」という概念はありません。そう思うのは、子供の遊び心を忘れてしまった大人だけでしょう。心がハラハラどきどきしてたまらない環境を用意してあげましょう。テレビなんかに見向きもしない子になったらしめたものです。
「困った子」 こう思うのも、大人だけです。何か困ったことをしている姿を見つけたら、注意したりする前に、「何がいったいそんなに面白いんだろう」、と少しながめてみてください。

12 共感する 子供の思いが「あー、なるほど」とわかり始めると、段々彼らの世界がわかりはじめます。楽しくて面白くて仕方ない世界に、あなたも入門し始めたのです。そうなればますます彼らは自分の世界を開き示してくれる。そういう人に近づき、なつき、表情も変わり、楽しくてどうしようもない、という顔つきになる、大人と子供の間に、「響きあう共感の世界」が生まれたのです!

13 「母性神話」 そういう用事や子供の心を読み取る力は、彼らとしっかりつきあいながら、次第次第に身につけていくもの。子供を産めば「母親」にすぐなれるのでもありません。
母性というものが女性には備わっているもの、と考えるのは間違い。そう思う父親がいたら、大いに改める必要がありましょう。たいていの父母は、わが子でも「時々愛し、時々憎らしく思うもの」(ある虐待問題の専門家の話)くらいに考えるのが現実的です。
 保育士さんだって同様です。出来上がった人なんかいません。日々何時間も幼児とかかわりながら、試行錯誤を繰り返しながら、段々それらしくなっていく。ここら辺は、保護者の皆さんも、優しく見守ってくださるとありがたいです。

14 子供こそ大人の教師 考え方の根本的転換が必要です。子供たちこそm私たち大人が、「人間らしく生きる」に必要な実に多くのものを差し出し与えてくれています。
たとえば・・・すなおでまっすぐ飾らない心、豊で楽しい遊びの精神、穢れなき友情、ユーモアやおどけや笑いの世界、のびやかな感性・・その他、たいていの大人がもうどこかに捨ててきてしまった貴重なる数々のものをふんだんに持ち合わせている。
彼らを妙に「しつけて」、つまらない大人のように(「都会にはよくそういう「小さな紳士淑女」がいます」してしまったのでは・・・どうしようもないじゃありませんか。
 私たちは人間社会について、眼前の小さな子より、よく知っている、と勘違いします。でも事実は、彼らこそが私たちを導いてくれる先生なんですね。

15 大建築の基礎 建物の基礎工事の念入りさを、私なんかも感心して見入ることがあります。人生最初の3年間、6年間は、まさにそういう基礎づくりの時期です。ここをどう過ごすか・・・、場合によっては「人間になりそこなう危険」があります。親たちもしっかり考え合って、適切な応援をするなら、やがてすばらしい建物がそびえ立つようにもなるでしょう。

16 夫婦仲良く これが大事であることは明らか。父母がいがみあうことが多くては、子供の心は想像以上に傷つき、情緒の発育も阻害されるでしょう。でも実際これほど困難なこともないかもしれませんね。

17 ここでキリスト教が 「あなたは(神様から)愛されている」という実感が与えられます。相手を受け入れるゆとりが生まれます。感謝の気持ちが生まれます。恵まれなかった幼児期を取り戻すことができます。

 しっかりした宗教の力は偉大です。人をして「新しく生まれさせる」ほどの力があります。私たちはキリストによってあやされ、背負われ、遊びこみ、飲み食いし、人間らしく「育てなおし」をしてもらう。これが「母なる教会」のありがたい役割です。やがて死にも打ち勝つ、たくましい人間となっていくでしょう。

こういう支えなくして、今度の震災が示すような「危険いっぱい」の世界を渡っていくことはこんなんではないでしょうか。ちなみに、日曜礼拝は午前10時から(私も2,30分のお話をします)。小学生は午前9時からです。学校教育に欠けている大事な教えと心を養う時間で。                       (続 く)
  

Posted by 矢沢牧師 at 09:33

2011年04月21日

号泣されるキリスト


          号泣されるキリスト
            -悲しみをのみほす復活祭―         
矢澤 俊彦
  大震災から一ヶ月が過ぎましたが、まあだ私たちはうちのめされています。悲しみに打ちひしがれています。大きな喪失感挫折感また無力感が心を占領しています。
しかしこのままでは生き残った私たちも、悲しみの津波に呑まれてしまいそうです。

  今の私たちには希望が必要です。悲しみに打ち勝つ強靭な希望です。それを必死になって探しまわっている私たちに差し出されているのがイースター(復活祭)で、今年はこの4月24日(日)にやってきます。
格別な思いで待ちわびるこの復活祭、それは人類を襲う大きな悲しみ苦しみをしっかり担(にな)ってくださる方、それらを担いきって死と悪に勝利した方がキリストと呼ばれる救世主です。
今キリストは日本人とともに号泣しておられます。激しく泣きながら悲しみをあとにして立ち上がられる。死も墓も後にしてよみがえってくださるのです。
  
私たちの悲しみを背負って下さる方がおられる。ここからこそ希望がわいてきます。そうして多くの先人たちは、無数の災害に打ち勝ち、多くの戦争やペストなどの恐るべき流行病などにも負けず、ここまであゆみを続けてきたのです。
来たる24日には、市内どのキリスト教会でも、悲しみを担ってくださる方の恵みを味わいながら、喜びをとりもどす祝いの大祭が持たれます。市民どなたでもおでかけください。
(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)



  

Posted by 矢沢牧師 at 16:54

2011年04月21日

イースター礼拝案内

イースター(復活祭)礼拝ご案内
                                 荘内教会一同
                                  牧師 矢澤俊彦
 今の日本の精神的危機は大なるものがあります。
 あの津波は私たちの内面までもうちのめしてい ます。うちひしがれて声も出ない私たち。  でも立ち上がらねばなりません。
そしてそのためには、大きな希望が必要です。

 今キリストは私たちと共に号泣しておられます。
被災者すべての悲しみをになっておられる。そして立ち上がってくださる。
人類の先頭に立ち、死と墓を後にし雄雄しくよみがえってくださるのです。
 
このよき知らせを受けた方々は、ぜひこぞって復活祭に集合し、力を得ようではありませんか!

 日時 201年4月24日(日)午前10時
     (独唱 中山祥子  祝賀昼食会も)
 場所  荘内教会礼拝堂

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人もし全世界を得たとしても、自分の魂を失ってしまったらどうしようもありません。力ある希望に生かされていないなら、その人は魂のぬけがら、「生けるしかばね」にすぎません。そこからどうして立ち上がれるでしょうか?

私たちは「死」に打ち勝たねばなりません。死は命の破壊です。これが津波のように人類に押し寄せてきている。これはアダム以来の人類の罪(神からの離反)のゆえです。人間らしい生活がこれで破壊されている。この大津波をその身に飲み込み、新たなる大生命を創造してくださる。これがキリストの復活です。
この神様を心から仰ぐとき、全世界を得るよりはるかに大きな快感と喜びがあなたの心を占領するでありましょう。
  

Posted by 矢沢牧師 at 16:45

2011年02月21日

インドで知ったわが身の貧しさ

         インドで見えてきた自分のごまかしや偽り
                     荘内協会保育園長 矢沢俊彦
          (2011年2月13日日曜礼拝にて)

★ インドの貧民に触れるのは大いなる体験です。そこで私たちは「丸はだか」にされます。追いはぎにやられる、という意味ではもちろんありません(もっともそういう可能性もありますが)。それは「はだかである自分」をそこで見出す、という意味です。ですからインド(人)は、何も故意にやっていない。ただありのままの生活を見せてくれるだけです。
でもふしぎです。そこで聖書のことばがピーンとひびいてくるんです(たとえば黙示録3章14節)。インドの農村の光景は、まさにイエス様が活動しておられた世界そのもののようなのです。物乞い、障害者、らい病人、お金持、さまざまな宗教・・・その他みんなそろっています。

★ 日本にいて自分というものが分からなくなっている方には、あの農村行きを勧めたい気がします。太古の時代を思わせる粗末な石造りの家に住む貧しき人々。ほとんど家財道具など持たず、食べ物着物にいつも不自由している。しかしその中で考えさせられるんです。本当に貧しいのは彼らより私たちのほうではないのかと。
私たちは確かにいろんなもので装い、つくろい、飾り立て格好はつけてはいます。でもあの貧民の前に立つと、自分達の生き方、人間関係、生活力、そして信仰などにおいて自分の非常な貧しさやごまかし、恥ずかしさや罪悪感を感じてしまうのです。自分達の姿の偽りがすっかりあらわにされてしまう思いがする、ああ、これまで何をしてきたのか、これらの「偽装」の手立てをつくろうのに汲々としてきたのか、物心ついてからの営々たる努力は何を目指していたのだろう・・・などとうなだれたり考え込んだり・・・でもそうして自分の姿が見えてくるのは何よりうれしいことじゃないか・・・と思い返したり・・・ああいずれにしても、これは本当に手厳しいスタディ・ツアーであるなあ、と、ひそかに感じていました。

★ たとえば私はこうも思いました。もし自分があのインドの町や村に放り出されたらどうであろう。金が尽きれば、多分何もできまい。リキシャの運転なんかむろんわずかでもムリ。まず物乞いくらいだろう。でもそれもできまい。あれだってかなりの習練が必要なのだ。とても生きながらえることはできません。
 今の話は過酷に過ぎるかもしれませんが、それはわたしたちの置かれた状況を鮮明にしてくれているのです。・・・・すなわち、我々はこの世界に投げ出され捨てられ、誰からも顧みられない、守護者はおらず、あらゆる危険にさらされている・・・地上をはいずりまわるあわれなる虫ケラではないか。これが私たちがおかれている生の状況なのです。

★ きびしい気候や生活環境の中で、インドの貧民は、自分達の命がどんなに危ういものか、それがどれほど死と隣り合わせなものか、それはもう日々体感しているのです。リキシャ運転手の過酷さが象徴的です。あのとにかくすさまじい交通の恐るべき雑踏の中で、ほんのわずかな不注意やミスが命取りになるのですから。

★ であればこそでしょう、インドの人々は宗教というものにあれほど真剣に向き合っているのだ、と思われてなりません。ヒンズー教徒(国民の80%)の日常の行、瞑想・祈り・喜捨、そして巡礼やガンガ(ガンジス河)沐浴の有様に接して、私は何か異様な必死さを感じます。彼らの素朴ともみえる信心を軽んじることができるでしょうか?人口も約12%いるイスラム教徒も同様です。ああいう懸命さに比べれば、私どもを含め、多くの日本人の信仰生活なるものは、まるで「児戯(こどもの遊び)」に等しいかのようなのです。

★ インドが暴露してくれた私たちの姿。それはみじめな「はだかの王様」でありなおよく見れば、「血の中を転がりまわっている」(エゼキエル書16章6節)危うい生命体にしか過ぎません。で、そういう私たちは、ただ天の神様のあわれみによって拾い上げられ、洗われ着せられ食べさせられて、やっと今日あるを得ている・・・この大いなる事実をしっかり味わっていくなら、私たちはもう気もおかしくなるほど、大いなる感謝感激で包まれるでありましょう。
 結び  私たちの偽装や思い上がりを明らかにしてくれたかの国の貧民たち。「私たちが貧しい人々にどれだけのものを負い、教えられているか・・・それは天国に行ってわかるでしょう」(マザー・テレサ)。
彼らに深く感謝しながら、これから私たちも人間として少しでもごまかしのない生き方をしたい、とあのガンガの水を眺めながら思いました。そして(困難なことですが)弱い人たち貧しい人たちを踏みつけないで生きていくことも・・・。  

Posted by 矢沢牧師 at 18:20

2010年12月28日

新年に 「平和のとりで」を

            築け、平和のとりでを、汝の心中深く
           恒久平和への国民的悲願を想起しよう
                                  矢沢 俊彦

1本の鉛筆があれば
   1本のエンピツがあれば 戦争はいやだと書きたい・・・
     1枚のざら紙があれば 8月6日の朝と書きたい・・ 

 御存知の方も多いでしょう。これは美空ひばりの「1本のエンピツ」という彼女のものとしては、とてもユニークな歌。でも私はこれを聴くたびに、心の内側からどーとこみあげてくるものを感じるのです。1本のエンピツを与えられている私たち・・・今沈黙していていいのでしょうか?これだけの豊かさを享受しながら、かえって精神的に閉塞沈滞し、かつてあった希望も理想も失い勝ちであるとすれば・・・こんなに申し訳ないことはありません。

               「終戦」でなく「新日本誕生の日」
 誰に申し訳がたたないか?それはまずこのたびの戦争で儀性となったおびただしい数の人々です。その中には日本が侵略した中国やアジア諸国の人達も含まれます。そのどの一人にも愛する家族があり、将来への夢も希望も持っている人々でした。私たちと同じように、生きる権利も資格もある人々。ああ、なんと無残なことを。

 猛暑の中で8月15日も過ぎ、8月も過ぎました。でも引き続き考えてみたいと思います。8月15日とは何であるかと・それは、あのような大きな悪を行い罪を犯した日本の過去と断固決別し、全く新しい国づくりを始めた日です。即ち、8月15日は「新日本誕生の日」です。それを「終戦」という言い方をするのは責任や意志が不明で正しくない、と私は思ってきました。もしまだ終戦と呼ぶなら、それは「戦争が終わった日」ではなく、戦争を終わらせた日」という思いを込めるべきでしょう。実際それもまぎらわしいので、私はやはり「新日本誕生の日」(ちょっと長いですが)を用いることを提唱したい、と思います。

犠牲者達の最深の思いは
 そこで私たちは繰り返し問うのです。あのおびただしい戦没者や犠牲者たち・・・彼らは今も私どもに語りかけているに違いないのですが・・は、私たちに何を望み願っているか、という点です。  それは自分たちの命をむなしくしないでくれ、みんな世界の人々とともに戦争はもうやめ、幸せに暮らしてくれ、ということではないでしょうか?そのために戦後掲げた恒久平和実現の大理想の牽引車となって生きることでは?
 このことをしっかり自覚せず、あるいは十分知らされることもなく、多くの命の犠牲の上に与えられた戦後社会の中で浮かれているとしたら、なんという恩知らずでしょう。現代の豊かな社会という大きな家の基礎には、戦争のために声も出せずに消え去っていった人々がいることを、繰り返して銘記せねば、と思います。

               悲願あらわな憲法前文
それではここで戦後の日本人の使命を要約しているものと私が思う有名な宣言をふたつ、改めて御紹介しましょう。
 ひとつは憲法前文の次の一節で、私はこれを涙なしには読めないのです。即ち、「我らは・・専制と隷従、圧迫と偏狭を、地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」のくだりです。
 私の読み解き方・・・私たちは大失敗をしてしまった。残念だが、「専制と隷従、圧迫と偏狭」に屈従した歴史だった。これを深く謝罪したい。でもなんとか国際社会の赦しの中で、この過去と決別したあゆみをさせていただきたい。そしてみなさんの中でそれを認めてもらえるようになるまで・・・・私たちはこれを「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」(前文末尾)ことを世界に約束したのです。

                  心に平和の砦を
 もうひとつはやはり戦後できた国際連合の目的達成に欠かせないものとして創設されたユネスコ(国連教育科学文化機構)憲章冒頭の一節です。
即ち、 「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなくてはならない」というものです。
 けだし名言、これを思いついたのはどなたか私にはわかりませんが、あの世界大戦の惨禍の深い深い反省に立った呼びかけに間違いありません。
 「平和のとりで」とは不思議な表現です。普通とりで(砦)は戦いのために築く要塞です。しかしそうでなく、戦争を消し平和を生み出すとりでを私たちの心中深く築けという。その意味を掘り下げてみる必要を感じます。

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               平和に生きるための6ヶ条
 以上を踏まえて、私たち日本人が平和のとりでをもち、恒久平和に貢献するために、なお必要なことを考えてみました。
1 国としての責任を明確に 各種式典などで、政府国民の「平和を願う気持」は十分確認されてきましたが、日本国家としての戦争責任がまだ不鮮明です。
明治維新以来、幾多の困難と闘いつつ国づくりに励んでこられた先輩たちへの敬意を、私は十分もっているつもりですが、この戦争はやはり憲法前文のいう「専制と隷従、圧迫と偏狭」のゆえであったことを、改めて明らかにすべきであると思います。
たとえば、あの大正昭和「治安維持法」が間違いであったことを、国はまだ認めていませんし、被爆者救援にももっと本腰を入れるべきでしょう。ドイツなど、戦争責任を国がはっきり認めている国がいくつもあります。

 2 外向き人間に 国民の「内向き体質」のようなものをさらに改めて、世界の国や文化を積極的に理解しよう、と努めること。情報の多量の流入にもかかわらず、まだ多くの人々は世界と向き合おうとせず、「文化的鎖国状態」に近い状態と感じます・義務教育の英語学習なども、この点での効果をあまり生んではいないようです。

 3 主体的学習を 記憶中心になり勝ちな傾向を改めて、自分の考えをもち、発表討論ができるようにする。特に批判的能力や判断力を身につけ、自己批判の力をつける。日本人も民族的自己愛に熱しやすい国民であることに十分注意したい。権威主義に代わる民主主義、精神主義を抑制する科学的精神を。マスコミ批判も大事です。

 4 歴史学習 ことに近代の戦争の歴史をしっかり学ぶ。できるだけ客観的に、事実に即して、自分でよく考えながら。何が戦争の原因となり、あそこまで進んでしまったのか?過去に学ばない人は、また同じ間違いをする危険がありましょう。

 5 自由な言論を  自由なはずなのに、多くの人が押し黙っています。タブーも色々ある。してはならない遠慮がある。すべき主張がわがままとする「体制翼賛体質」がありそう。国民の主権があまり生きていない。国民的討論の不在のさびしさ。江戸時代以来、抑えられてきた言論の自由。まだ無意識的抑圧の強い環境の中ですが、もうそろそろ楽しく自由な言論の沸き立つ社会にしていこうではありませんか!!

6 復讐を控える精神を  とりでに飛んでくる火矢や銃弾。やられたらやり返したくなるのは人間の自然。でも「平和のとりで」は、さらに高いあり方を示します。
それは憎しみねたみ、或いは不当な攻撃を受けても、それをそのまま返さない、「復讐は神にまかせよ」、「汝の敵を愛せよ」(聖書)との宗教的境地でもあります。
この心をみんなが身につけることは困難でしょうが、人々の上に立つ指導者のうちにこれが備えられるなら・・・・・国際平和にとっては無類の力になるに違いありません。刺激挑発に弱く、民族的自己愛や復讐心に富んだ人が責任者としてそこにいては、営々たる諸国民の努力も台無しになってしまうからです。(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)












  

Posted by 矢沢牧師 at 13:45

2010年12月28日

私の見たアメリカ

私の見たアメリカ人
(私はさる6月、機会を得てアメリカのミシガン州グランド・ラピッズ市に滞在、そこで教会や神学校や町の人々と交流してきました。以下はその印象記の一部ですが、とにかくアメリカの教会は元気で生きていますー矢沢俊彦。)
★ なぜアメリカを見たいか ① 米国は日本人にとってとてもよい「鏡」である。自分の姿を知る大切さ ② アメリカを知ることは大事。諸外国を知らないで、共に生きていくことはできない。「鬼畜米英」などと言い出した歴史。目隠しして歩く危うさ  ③ 聖書に学んできた国 民主主義を戦いとってきた歩み。生きている教会を体験して励ましと元気を与えられることは確実。
★ よく互いに話す。紹介しあう。笑顔で人を迎える。他人とであう機会が多い。議
論も質問もする。社交性が大変よく訓練されている。  
★ 自分の声を出す 欲求や情緒もよく人前で表現する 自分の考えを持たせるのがアメリカの教育 記憶中心の日本とは随分違う 
★ 親密感のある人間関係 まずすぐファーストネームでよびあう。家族に個人が
隠れるようなことはない。肩書きや地位、出身地や階層などに左右されない人間の平等意識が徹底されているのは見事。差別撤廃も進む。
★ ゆったりしておおらか 生き方に自信が感じられる。 みな機嫌がよかった。文
化の力を感じた。ゆとりを持って生活を愉しんでいる。助け合い精神が旺盛である。 自主独立が基本であるが、いつでも助けを必要としている人に手をさしのべる構えがあるように見えた。
★ サマースクールはじめ、教会学校が盛んです。一見の価値ありです。
  

Posted by 矢沢牧師 at 13:34

2010年12月28日

私の見たアメリカ

私の見たアメリカ人
(私はさる6月、機会を得てアメリカのミシガン州グランド・ラピッズ市に滞在、そこで教会や神学校や町の人々と交流してきました。以下はその印象記の一部ですが、とにかくアメリカの教会は元気で生きていますー矢沢俊彦。)
★ なぜアメリカを見たいか ① 米国は日本人にとってとてもよい「鏡」である。自分の姿を知る大切さ ② アメリカを知ることは大事。諸外国を知らないで、共に生きていくことはできない。「鬼畜米英」などと言い出した歴史。目隠しして歩く危うさ  ③ 聖書に学んできた国 民主主義を戦いとってきた歩み。生きている教会を体験して励ましと元気を与えられることは確実。
★ よく互いに話す。紹介しあう。笑顔で人を迎える。他人とであう機会が多い。議
論も質問もする。社交性が大変よく訓練されている。  
★ 自分の声を出す 欲求や情緒もよく人前で表現する 自分の考えを持たせるのがアメリカの教育 記憶中心の日本とは随分違う 
★ 親密感のある人間関係 まずすぐファーストネームでよびあう。家族に個人が
隠れるようなことはない。肩書きや地位、出身地や階層などに左右されない人間の平等意識が徹底されているのは見事。差別撤廃も進む。
★ ゆったりしておおらか 生き方に自信が感じられる。 みな機嫌がよかった。文
化の力を感じた。ゆとりを持って生活を愉しんでいる。助け合い精神が旺盛である。 自主独立が基本であるが、いつでも助けを必要としている人に手をさしのべる構えがあるように見えた。
★ サマースクールはじめ、教会学校が盛んです。一見の価値ありです。
  

Posted by 矢沢牧師 at 13:28

2010年12月28日

北インドで人間回復

北インドで人間的感覚がよみがえった!
   ―概念の奴隷からの解放と新生がー
荘内教会ではここ数年、教団のインド派遣宣教師、三浦照男さんを物心両面で応援してきました。無論私共もゆとりあってのことではありませんが、この活動によって多くのものを与えられてきました。その中から二つのことを述べてみます。

★ 窓が外に開く 第一はインドとの関わりを通して、内向きになりがちな私たちの
目がいつも外に向けられるようになったことです。それはインドだけでなく、途上国といわれる国々のことが自然に気になりだしたのです。その国々の人々の生活だけでなく、キリスト教宣教についても感心が強められています。みなさんの中には、日本宣教がこんなに低迷してるのに、ほかに注ぐエネルギーはない、と思う方がいるかもしれませんが、そんなことはありません。インド宣教の現実も歴史も面白く、他宗教との接触からも多くを学ぶことができます。
★ 概念こわし  現地にでかけていって貧しい人々に触れることは、私たちに大きな衝撃となりました。それを「概念こわし」と、私は呼びたい、と思います。これは絵画や心理学で用いられる用語で、型にはまったような絵(概念画)しか描けないようになっている時、いろんな工夫をしてその先入観念を打ち壊すことです。 

★ 奴隷解放 今私達の生活も、言わば色々な「型」や既成概念にはめ込まれています。 仕事や生活スタイルや人間関係もマンネリ化し、新鮮な感動を失いがちです。生命のない無数の概念が、私達を取り巻き、私達をがんじがらめにしています。
でも、インドの貧民とのふれあいは・・・・・その死んだ概念の奴隷のような私たちを解放し、目も耳も生き返らせ、世界を初めて感動をもって眺めるように、私たちを生き返らせてくれるのです。
★ 目の色も変わる 飢えに苦しむ人達が、人間の生活や世界について、一
番根源的なことを教えてくれる。自分はこれまで何をしてきたのだろう、と激しく揺さぶられ、すべてが反省させられ、初めてモノを考え悩み、目の色も変わって猛烈に学び始める・・・こういうすばらしいドラマが待っていたのです!・・・・・・・・・・・・・・
★ 以上のような思いと期待をもって、私たちは4回目のツアーを来年1月に行ないます。私は網膜色素変成症という目の難病で、数メートル先の人物の判別も困難なのですが、ぜひもう一度インドの土を踏み、あの空気を吸いたい、と願っています。
★ 描画の初体験 参加者の多くは教会に隣接している保育士さん達で、今回で延べ8人が参加、子らの初めてのお絵かき体験のお手伝いもしています(矢沢)。。
              8






 








  

Posted by 矢沢牧師 at 13:19

2010年12月28日

ペスタロッチのことばから

内面に沈潜、深みからの統合へ
   -真理の形骸で闘争してはならない!-
                     協議会長 矢沢 俊彦
  純粋に我々の奥底からくみ取った真理は、その形骸7のために争う幾千もの闘争者の間を統一するであろう。
                     ペスタロッチ『隠者の夕暮』より
この11月に私共の保育園舎の増築工事が終わりました。今ではすべてが美しく整い、新鮮な木の香りに包まれた子らの家はどこを見ても輝きにみちています。
 でもここに至る数ヶ月間の工事現場はそうではありませんでした。もう沢山の資材や道具機械が置かれ、多数の人々が出入りし、あたり一面は(業者は絶えず整理整頓をするのですが)、やはりすべてが雑然とし、カオスに近い騒然とした混沌の世界でした。しかし今やそれは一変した実に麗しき秩序のうちに息づいているのです。これまでの大小すべての動きや働き、作業や労働が一つも無駄にされることなく、この完成作品に生かされていることを思うとさらに感動的です。

 そこで自然に思いが及ぶのが、我々の世界の混沌、我が教界の混乱、そして自分の内部のカオスです。これらもやがて見事に秩序づけられるのでしょうか?この現場にも隠れた「棟梁」が監督しておられるのでしょうか?
 ペスタロッチによると、その大いなる方に出会うには、自分の心の奥底におりていくことが必要だという。空騒ぎをやめ、内面に出来るだけ深く降ること、そこでの出会い、そこでの発見洞察が、自分の痛ましい有様を明るみに出してくれる、私はこのように理解しました。

「何ということだ、真理のために戦っていたオレのつかんでいたのは、わづかにその「形骸」に過ぎなかったのか。数千もの「形骸同士」が激しく闘争しているというのか・・これはこわい、油断は出来んぞ。もっともっと深く下りていかねば・・。でも無数の分裂が少しづつ統一されていくこの心地よさ甘美さはどうであろう・・・・」。        
  

Posted by 矢沢牧師 at 13:12

2010年12月28日

羊飼いと博士 クリスマスに

                 羊飼いと博士たち
              ―世界最初のクリスマスを祝った人々―ー
                                   矢澤 俊彦
                「キング・オブ・キングズ」
★ ヘンデルの「メサイア」でも「キング・オブ・キングズ」(諸王の王)と讃えられてい
るキリスト、クリスマスはこの大いなる王様の誕生日です。今でこそ盛んに祝われるようになりましたが、世界最初のクリスマスは、実はとても静かで、きらびやかな豪華さとは無縁でした。
★ 普通国や民族の王様が生まれるとなると大変です。ずっと前から国民に知らさ
れ、みんな準備をし、大騒ぎをしてその日を迎えます。人々は大喜びするでしょうが、それはそう長く永続するものではありません。そのようにして世界はこれまで無数の王を迎え、送ってきました。そしてそのほとんどは、もう思い出されることもめったにないのです。
                 その影響力の秘密は?
★ でもキリストの場合は不思議です。あれから2000年もたっているのに、今でもそ
の誕生が盛んに祝われるだけでなく、この王の家来として一生を捧げる人々がどんどん出てくる。これは実に不思議違なことではありませんか。でもそれでこそ「諸王の王」と讃えられるゆえんではないでしょうか。
★ この不思議、この永続する大きな影響力の理由はどこにあるのだろうか、と考え
てみたのですが・・・・どうやらそれはほかの王様と違って、キリストが「私たちの心の中に生まれること」、そして私たちの心をやさしい光で包んで、神様のところまで引き上げてくれるからではないでしょうか。
暗闇の中でのたうつような私ども、阿鼻叫喚の巷で叫び続ける私どものところまで降りてきて、どん底であえぐ人々の心深く誕生されるからです。この消息は今も昔と変わっていません。それでは改めて、聖書の記す世界最初のクリスマスを紹介してみましょう。
               初めてメシアに出会ったのは?
★ 救い主なる王誕生について、それが「いつ、どこに、どんな風に」お生まれになる
か、は誰にも知らされていませんでした(多分、今でもそうなのでしょう)。世界に布告されていたのは、皇帝アウグストによる人口調査に関するものでした。権力者による非人間的な暴虐の中で、すべての抑圧や圧迫に勝利する力を下さる王が生まれたのです。
★ さて、その誕生の知らせを受けたほは、羊飼いと博士だけでした。一方は、ベツ
レヘム郊外の名もなき人々で、彼らには天使がやってきて、、そして「遠い東の国の博士たちには大きな星の現われによって伝達された、と記されています。それではこの世界最初にクリスマスをお祝いできたこの人たちがどんな人だったか、考えてみました。
                 羊飼いーこの最底辺の人々
★ まず羊飼いです。当時の彼らの仕事は、今でいう「3K」以上に厳しく、嫌われていました。それだけでなく、彼らは町の人々からはのけ者にされ、神殿への出入りも禁じられ、いわば社会的に徹底して「疎外」され、無視され、押しつぶされている身分なき人たちでした。それにもめげず、彼らは黙々と羊の世話をし、よく野宿しました。
野原は彼らにとって、しっかりモノを考え、人生を省察するのにもってこいの環境だったでしょう。町の喧騒から遠ざかり、暗い静かな長い夜を、瞑想と沈黙と対話のうちに過ごす。彼らには学問も教養めいたものはなかったでしょうが、そうして養われた人生の知恵を豊かに持っていた。そしてそれ以上に、「誰かに来てほしい。俺たちをここから引き上げてくれ」という願いや憧れを深くしていたに違いありません。多くの危険、どうにもならない貧しさ、社会的圧迫と無力感の中で、夜な夜な天を見つめ、心の中で叫び続けてきた・・・・。
★ そんな羊飼いに、天使からの訪れがあった・・・・待っていた救い主が王宮でな
く、宿屋にも入れられず、なんと「うまごや」(家畜小屋)の飼い葉おけに寝かされている、という。それを聞いた彼らは、しばらく考えて合点がいったことでしょう。「その王様こそ俺たちの拝める王様だ」と。「急ぎ行きて拝まずや」、うまやに急ぐ彼らの足取りはどんなに軽く、また喜びに満ちたものだったことでしょう。

               博士―すべてに恵まれていたが
★ さて、次は「遠い東の国の博士たち」です。キリストへの贈り物が3つ記されていることから3人だとよくいわれます。彼らが長い苦しい旅をしてベツレヘムまでやってきた、というのです。
  この博士たちは羊飼いと違って、その社会でトップにランクされる指導者でした。3人の王だった、という説もあります。その彼らがなぜ、あの困難と危険に満ちた長旅を敢行したのか。これが興味深いところです。
★ 大方の説によると、彼らは星占い師(占星術師)で、その優れた知識技術によっ
て国政に助言し、人々の相談にものっていたといわれます。国民から尊敬もされ、立派な家に住み召使も多く、何不自由ない生活をしていたに違いありません。
 しかし星占いという仕事は人生について深く考えさせます。それはちょうど羊飼いたちが毎晩由空を眺めながら、物思いにふけっていたのと似ているようです。それに博士らの魂は自分に誠実で、正直者、ごまかすこたは大嫌いでした。
                  内心の不安と無力感   
★ 彼らが自分たちの心の底に見出したものは・・・自分たちは今恵まれた暮らしをしている。仕事や地位や財産や家来もいるしみんなの尊敬も受けている。でも心の底に満ち足りるものがない。このむなしさ、そこはかとない不安、さびしさはどうすることもできない。いったいわしらはどこへ流されていくんだろう?さっぱりわかりはしない。
それにわしらのしてることは、なんとわずかなことか。この社会にうずまく悩みや悲しみ、この混乱や人々の飢え渇きはどうであろう。わしらは結局、大事なことは何も知らず、何をする力も持ち合わせてはいないのだ!
 そんな思いがもうどうしようもなく強くなってきたころ、・・・・西の空に不思議に輝く大きな星が現われたのでしょう。彼らは俄然色めきたちました。その意味について触れた旧い予言書を見つけるに及んで、これはなんとしても遠い西の国まで旅をせねば、あの星が導いてくれるに相違ない。
                無謀で危険きわまる旅路
その旅立ちの決意に、家族はじめまわりの人々はどんなにびっくり仰天したことでしょう。なんという無謀なことを!気でもおかしくなったんじゃないか、あの荒野と砂漠の続く遠路です。天候は不順、道中に追いはぎだけでなく、おおかみなど危険な生き物も出没します。それらにも備える旅支度などできるはずはありません。きっと老博士もいたでしょうし、旅慣れた隊商たちでもないのです。早晩、いくらも行かないうちに倒れ、砂漠に朽ち果てるに違いないのです。
★ しかし・・・それらすべてを知った上で彼らは旅立った。それはなんとしても、この人生のナゾの答えを見出したい、という強烈な思いに燃え立っていたからです。
 旅は予想通り、あるいは予想を超えて困難で、かつ難渋を極めるものでした。その中で、それまでの栄光に富んだ博士としての人生は、すっかり過去のものとなりました。彼らはほとんど何も持たない一介の旅人に過ぎなかった。ただ心中深く「この世界の救い主」に会いたい、という一念だけにつき動かされて、一歩一歩ひたすら進んでいったのです。そして彼らの旅は目的地に着くまで、奇跡的に守られたのです。
                共通点―「なんとしても」の思い
★ さて、世界で最初のクリスマスに出会った人々。それは羊飼いと博士たち、一方
は社会の最下層に、他方は最上位にいる人たちです。これでもって聖書は、キリスト誕生が、「すべての民に与えられる大きな喜び」であることを示そうとしているのでしょう。
 ただ両者にはかなり共通点があります。それは、心の中の底にあるものをじっくり見据え、なんとしても救い主(メサイア)に会いたい、との願いを強めていたこと。そしてそのために「長い苦しい旅」をしたことです。えっ、でも羊飼いはすぐ近くにいたんじゃない?そうですね。でも、彼らの日々の苦しい生活は、そのまま博士たちの砂漠の旅に匹敵するのではないでしょうか?今この時代でも、そういう旅路にいる人々は、クリスマスの喜びまで導かれつつあるのですよ(鶴岡市本町3丁目5-37日本キリスト教団荘内協会牧師)。
  

Posted by 矢沢牧師 at 13:04

2010年12月28日

エッセイ 死線を歩む日本の教会

死線をさまよう日本の教会
              ―黄泉のドロ沼から脱出の方向は?―
                            荘内教会牧師 矢沢 俊彦

★ 鑑真  先日あの唐招提寺の鑑真和尚が里帰りした、というニュースを見ておも
いました。あの鑑真のエネルギーが欲しいものであると。数度にわたる渡航失敗にもめげず、何としても大和やまと)の国に伝道せねば、と命をかけた唐の僧侶。。ついに盲目となりながらも不退転の闘志でその志を遂げた・・・・あのエネルギーはどこから、と考えました。それを与えられて、今度は私たちが中国伝道で「恩返し」ができれば、と思いつつ、さまざまなことが私の脳裏に浮かびました。

★ 一大発見  それは素朴にいえば、自分自身について一大発見をしたからでは
ないでしょうか?これは今誰も気づいていない。これを伝えねば・・・、という強烈な使命感でしょう。
それは近代では、たとえばオスカー・ワイルドの「王女様の誕生日」で踊り狂いながら、自らの醜悪な姿にまるで無知だった森の生き物のあまりにも悲しい自己発見に似ているかもしれません。幸い鑑真の心臓は止まらず、どん底から這い上がることが出来たのです。

★ どろ沼  平成の日本人の課題は、そういう心の奥底に深く降ることです。その
底でくみ取った真理のみが、現代の相対主義のドロ沼で苦悶する無数の人々の光となるのではないか、と予感されます。その意味で、この日本にチャンスありです。今の宣教の行き詰まりは、神様の格別深いみ心が隠されているように思えてなりません。

★ 黄泉での叫び  今の我が同胞はまるで「黄泉(よみ)の国の住人のよう。まる
はだかで日々かげろうのように、やっと生きてるだけ。讃美の声をあげるどころか、ほとんど声すら出ていません。まさに旧約の「哀歌」の世界です。空騒ぎと空虚と擬装と死が支配しています。この底に下りて叫ぶ人がやってくるのを、うずくまり悶えながら必死で求めています。それさえもはや、かき消されそうなのです。

★ 宙吊りの教会  同じく黄泉に深く沈む教会は、その中でも「最もあわれむべき」
ものです。「この世のものを持たず、天国のもにいまだ接せず」(鑑三)、言わば何ひとつ持たないで宇宙空間に宙吊りされたまま。「世は彼を卑しむれど、彼は世に勝つの
                     3
能力(ちから)を有せず」。さてここから偉大なる救済のドラマが始まるでしょうか?
★ 死線を往来  ここまで追い込まれているのが、我が日本の伝道戦線だと、私
は見てい 24ます。それは「死線を行き来する」世界、死屍累々ともいうべき世界です。地のはてなる世界と言っても言い過ぎではない。多くの牧師や家族たちが「獄にいます」。でも誰も見舞う人はいないし。友人たるべき人々も、同じところで呻いているからです。

★ 青年を騙すなかれ  こんなところに、やたら人を近づけてはいけない、青年を
誘惑してはいけないのです(それはた易いことです)。神学校入学を軽々に勧めてはいけない、と私は思う、それが親切というものです。
入れば(導かれて)「何とかなる」なんてものじゃありません。そうでなく、やがて彼らはだまされたことを知って向き直り、「オレの人生を返してくれ」と抗議の叫びをあげることでしょう。青年に来てもらうには、その前に教団や学校としてもやるべきことが沢山あるはず。たとえば争いをやめること、うわべでない喜びのある教会にすること、経済的助け合いのシステム・・・。

★ 信者の身勝手  ついでに言いましょう。伝道らしいこともしていない長老や信徒たちが、ウチの教会にだけはいい牧師が欲しい、などと望むのは身勝手も甚だしい
のではないでしょうか?こう言ったところでゆめ誤解しないで下さい。私自身神学校のお世話になり、その発展と日本伝道の進捗を衷心から願っているものであることを。  

★ 影と本体 自己反省 持っていると思いこむ擬装や錯覚に注意したい。真理
の断片や形骸を手にして争うことは避けたい。きれいなことばや概念でがんじがらめになっていなかったか?「みことば」の中に隠れ、その背後にたてこもる、自由のつもりで惨めな奴隷ではなかったか?「出来事」(解放)を起こさない「ことば」のむなしさ。
やはり昔人の指摘通り、自分は洞窟にほのかに映る本体の影ばかり見てきたのではなかったか?

★ 小さき者に  しかし、たとえそうであっても、いや、それらに気づいてこそ、クリス
マスを祝うことができます。天地万物を創造統御していたもう想像を絶する「巨大なる神様」が、なんと小さきものになられたことでしょう。こんなにも小さき者を生かすためにです!  メリー・クリスマス!
 「ちょう(蝶)一匹が飛ぶだけにも、実に全宇宙が必要なのです(クローデル)
                       4

  

Posted by 矢沢牧師 at 12:54