2009年10月26日

情報はプランクトン


      「情報はプランクトン」
      自由の中で不幸な日本
                                矢澤 俊彦
 毎日大変な両の情報に囲まれている私たち。そして目にし耳にした多くの情報も、園ほとんどが通り過ぎ、心にとどまるものはほんのわずかでしょう。いわば情報の洪水のさなかでおぼれているのせす。そこで最近私は見聞きしたことで心に感じたものをメモしておき、あとでその要点を書き出し、少し時間をかけてそれらの意味について考えることとしました。その一部を以下に紹介してみました。
 「情報はプランクトンである」と誰かがいいました。小さなものでもしっかり食べているうちに、やがて巨大くじらに変身していくかも・・・・?皆様にもお奨めをしたい、と思います。
 なお、以下の多くはNHKラジオ,ことにその深夜便から聞き取ったものがもとになっています。言葉づかいは正確な引用ではありませんが、内容の要約についてはさほどの誤差はないと思います。

★ 近づきやすい人  「すきま」のある人がいることが追い詰められている人の
助けになります。たとえば不登校の子供たち。彼らとつきあうには、あまりに「しっかり」していては、近寄れないんですね。親も教師も。フリースクールでののびやかの子らの表情がまぶしい。「なんだか窮屈なとこから、広い世界にでてきたような気がするんです」、とある小学生。でも学年も成績も意識しない、楽しい「居場所」が、確かにそこにありました。おおらかで、どこか抜けている人間に、人は近づきやすいのでしょう。

★ 「詩のボクシング」  こういう名前の催しが山形で開かれたそうな。リングに
上がった二人がコーナーから出て、三分づつ、大声で思い思いの創作詩・・・社会への怒りや失恋最近の大きな経験などを観衆に訴えて、勝負を決める。こういう形での発信も面白いもの。さあ、これなども思い切って、私たちも取り入れられないものか・・・・。

★ 戦死者を置き去りにして  僕はつくづく思うのですが、日本という共同体
のために命を投げ出した人々に、戦後の日本人は心から向き合ってきたでしょうか?死者を置き去りにして目先の繁栄だけを求めてこなかったでしょうか?同時に・・アジアに戦禍を及ぼし沢山の人達を傷つけてもいる。こういったことからも目をそらしてきたのでは?僕には(戦死した)クラスメートに申し訳がたたない、という気持があるんです。今こうして毎日海を眺めていますと、水葬した彼らがそこにいるような気がするんですよ(池田武邦「巡洋艦や萩の青春」)。

★ 囚人に優しい社会  NHKテレビの番組に感動した私は、「囚人に優しいノルウ
ェー」と題する一文をまとめたが、それを荘内日報紙が先日掲載してくれました。多くの人の目にふれることになって嬉しいことです(10月22日)。
実は私たちもいろんな意味で「囚人」。こだわりや不安や恐れ、それに長い年月犯してきた沢山の犯罪のために心は罪悪感でいっぱい。それに責められて元気が出ないのです。でもこういう悪人なのに、周囲はどんなに優しく私たちを取り扱ってくれたことでしょう。しかも「あなたは無罪放免です」という天の声まで聞こえてきます。まだ「反省」ができないなんて・

★ 地球の歴史に  地球上の海は地表の約70%。その底には巨大な海底火山
が絶え間なく活動している。非常な勢いで爆発し、プレートを動かす。昔世界の陸地はひと続きだったのに、長い年月をかけて今のように。ヒマラヤの高山から魚や貝の化石がでてくる。かつて離れ絵いたインド大陸がぶつかって、下から押し上げられた海底が、今は8000メートル以上の山々に。海も山も動かす造物主の力の偉大さを思わせられます。 気が滅入るときは、こういう大きなことを想像するのも一手です。

★ 法則のあるこの世界  何事もよく見て「気づく」こと、さらによく観察して「法則
性」を見つけること。これが「科学」というものの出発です。その積み重ねが現代の科学技術。ここまでくるのに、どれだけの発見実験工夫などがあったことか。・・・混乱ばかり目につくこの世界ですが、実は無数の法則が支配している。目にするどんな道具でも、そういう気づきに基づく無数の月重ねの結果だと思うと感動的せす。
人間世界も決してめちゃくちゃではないのです。そこにも偉大なる法則がある。その一つは、「人は愛によって生きる」ということでしょう。。

★ 海軍の教育  かつて海軍の指導者を訓練した兵学校の話を聞いた。「厳しく、
しばしば理不尽な上級生によって手荒く「教育された」。。でも今考えると、あのすさまじい理不尽な戦場で、部下何十人を率いなければならない若者の訓練としては必要なものだった、並大抵なことであれはつとまるもんじゃない、と思う。。それにリーダーであるから、はた目にもきちんとしているよう、しつけられたのだった」(前出 池田武邦)。・・無論私は戦争も体罰的教育も大反対ですが、こうして語られる先輩の言葉に、拾い上げるべき真理性もあることをかんじたのでした・。

★ 自販機的応対  日本のスーパーやレストランで働く人々の手際よさやサービス
精神は素晴らしいが、どこか機械的で自販機のよう、人間に接しているような気がしない、と英国クロチェスターの黒川郁子さん(深夜便)。
そこへいくと、彼国では、その手さばきは日本ほど素速くはないけれど、必ずというほどあいさつをして、ちょっとした会話を楽しむのだそうです。人間に触れる味わいがあるのを、うらやましく思った私です。

★ 遠くなった動物の声  鹿の鳴き声を初めて聞きました。「音の風景」というラジ
オ番組で。場所は秋の奥日光。甲高いいななきに聞きほれ、鹿を身近かに感じました。こういう動物のいろんな鳴き声を、保育園の子らに聞かせて上げたら・・・彼らの好奇心を刺激するに違いない、無論ビデオでもいいから本ものの生き物の姿を見せてもあげたい。昔見た「稲の一生」などを思い出します。子供らの興味関心を引き出すてだてはいくらでもあろう。

★ 縄文人と現代人  多賀城に東北歴史博物館というのがある。展示のひとつで
目立つのは、縄文時代の土偶。さまざまな人物像。じっとみていると、いずれも生命力を求め、悪魔的な力を追い払いたい。そんな縄文人のいのりが伝わってきます。昔から人間は祈ることなしには生きてこれなかったのです。
それで人間は古来宗教というものを求めてきました。それは魚に水が必要なの
とそっくりだと、私は思います。明治36年の天主堂竣工式で、青年新藤豊吉が、「人にして宗教を離れんか、霊において既に死す魚にして・・・」と、演説しているとおりです(『鶴岡の荘内教会宣教物語』)。祈りと信仰を去った現代人をかの縄文人が見るなら、、もう息も絶え絶え、水なき谷川であえぐ鹿のようかもしれません。

★ 自由の中で不幸に  太平洋戦争の話をきくたびに、今のこの国がどんなに自
由で恵まれている時代かを思います。戦争の犠牲になった人々の最深の思いも、その後の日本人が幸せになってほしい、ということではなかったか・・・・。でも戦後の私たちは今、に至るまでどうも深い安らぎも満足感もなあさそうです。考えてみればとっても不思議なこと。こんなに豊かで、大きな自由を享受しているのに。
その理由。私見では、「自由」というものを使いこなせず、重荷となり逃げ出す。あるいはその中で溺れてる。自分の欲望や不安に振り回されて、自分が見えなくなっている。「神ならぬこの世の神々の奴隷」の境涯に舞い戻っているからでは?せっかく大いなる解放をもって出発したのに、心の中の敵に打ち勝てないからでは?
(鶴岡市本町3丁目5-37 日本基督教団荘内教会牧師・同保育園長)




 




Posted by 矢沢牧師 at 06:39