2010年12月28日

羊飼いと博士 クリスマスに

                 羊飼いと博士たち
              ―世界最初のクリスマスを祝った人々―ー
                                   矢澤 俊彦
                「キング・オブ・キングズ」
★ ヘンデルの「メサイア」でも「キング・オブ・キングズ」(諸王の王)と讃えられてい
るキリスト、クリスマスはこの大いなる王様の誕生日です。今でこそ盛んに祝われるようになりましたが、世界最初のクリスマスは、実はとても静かで、きらびやかな豪華さとは無縁でした。
★ 普通国や民族の王様が生まれるとなると大変です。ずっと前から国民に知らさ
れ、みんな準備をし、大騒ぎをしてその日を迎えます。人々は大喜びするでしょうが、それはそう長く永続するものではありません。そのようにして世界はこれまで無数の王を迎え、送ってきました。そしてそのほとんどは、もう思い出されることもめったにないのです。
                 その影響力の秘密は?
★ でもキリストの場合は不思議です。あれから2000年もたっているのに、今でもそ
の誕生が盛んに祝われるだけでなく、この王の家来として一生を捧げる人々がどんどん出てくる。これは実に不思議違なことではありませんか。でもそれでこそ「諸王の王」と讃えられるゆえんではないでしょうか。
★ この不思議、この永続する大きな影響力の理由はどこにあるのだろうか、と考え
てみたのですが・・・・どうやらそれはほかの王様と違って、キリストが「私たちの心の中に生まれること」、そして私たちの心をやさしい光で包んで、神様のところまで引き上げてくれるからではないでしょうか。
暗闇の中でのたうつような私ども、阿鼻叫喚の巷で叫び続ける私どものところまで降りてきて、どん底であえぐ人々の心深く誕生されるからです。この消息は今も昔と変わっていません。それでは改めて、聖書の記す世界最初のクリスマスを紹介してみましょう。
               初めてメシアに出会ったのは?
★ 救い主なる王誕生について、それが「いつ、どこに、どんな風に」お生まれになる
か、は誰にも知らされていませんでした(多分、今でもそうなのでしょう)。世界に布告されていたのは、皇帝アウグストによる人口調査に関するものでした。権力者による非人間的な暴虐の中で、すべての抑圧や圧迫に勝利する力を下さる王が生まれたのです。
★ さて、その誕生の知らせを受けたほは、羊飼いと博士だけでした。一方は、ベツ
レヘム郊外の名もなき人々で、彼らには天使がやってきて、、そして「遠い東の国の博士たちには大きな星の現われによって伝達された、と記されています。それではこの世界最初にクリスマスをお祝いできたこの人たちがどんな人だったか、考えてみました。
                 羊飼いーこの最底辺の人々
★ まず羊飼いです。当時の彼らの仕事は、今でいう「3K」以上に厳しく、嫌われていました。それだけでなく、彼らは町の人々からはのけ者にされ、神殿への出入りも禁じられ、いわば社会的に徹底して「疎外」され、無視され、押しつぶされている身分なき人たちでした。それにもめげず、彼らは黙々と羊の世話をし、よく野宿しました。
野原は彼らにとって、しっかりモノを考え、人生を省察するのにもってこいの環境だったでしょう。町の喧騒から遠ざかり、暗い静かな長い夜を、瞑想と沈黙と対話のうちに過ごす。彼らには学問も教養めいたものはなかったでしょうが、そうして養われた人生の知恵を豊かに持っていた。そしてそれ以上に、「誰かに来てほしい。俺たちをここから引き上げてくれ」という願いや憧れを深くしていたに違いありません。多くの危険、どうにもならない貧しさ、社会的圧迫と無力感の中で、夜な夜な天を見つめ、心の中で叫び続けてきた・・・・。
★ そんな羊飼いに、天使からの訪れがあった・・・・待っていた救い主が王宮でな
く、宿屋にも入れられず、なんと「うまごや」(家畜小屋)の飼い葉おけに寝かされている、という。それを聞いた彼らは、しばらく考えて合点がいったことでしょう。「その王様こそ俺たちの拝める王様だ」と。「急ぎ行きて拝まずや」、うまやに急ぐ彼らの足取りはどんなに軽く、また喜びに満ちたものだったことでしょう。

               博士―すべてに恵まれていたが
★ さて、次は「遠い東の国の博士たち」です。キリストへの贈り物が3つ記されていることから3人だとよくいわれます。彼らが長い苦しい旅をしてベツレヘムまでやってきた、というのです。
  この博士たちは羊飼いと違って、その社会でトップにランクされる指導者でした。3人の王だった、という説もあります。その彼らがなぜ、あの困難と危険に満ちた長旅を敢行したのか。これが興味深いところです。
★ 大方の説によると、彼らは星占い師(占星術師)で、その優れた知識技術によっ
て国政に助言し、人々の相談にものっていたといわれます。国民から尊敬もされ、立派な家に住み召使も多く、何不自由ない生活をしていたに違いありません。
 しかし星占いという仕事は人生について深く考えさせます。それはちょうど羊飼いたちが毎晩由空を眺めながら、物思いにふけっていたのと似ているようです。それに博士らの魂は自分に誠実で、正直者、ごまかすこたは大嫌いでした。
                  内心の不安と無力感   
★ 彼らが自分たちの心の底に見出したものは・・・自分たちは今恵まれた暮らしをしている。仕事や地位や財産や家来もいるしみんなの尊敬も受けている。でも心の底に満ち足りるものがない。このむなしさ、そこはかとない不安、さびしさはどうすることもできない。いったいわしらはどこへ流されていくんだろう?さっぱりわかりはしない。
それにわしらのしてることは、なんとわずかなことか。この社会にうずまく悩みや悲しみ、この混乱や人々の飢え渇きはどうであろう。わしらは結局、大事なことは何も知らず、何をする力も持ち合わせてはいないのだ!
 そんな思いがもうどうしようもなく強くなってきたころ、・・・・西の空に不思議に輝く大きな星が現われたのでしょう。彼らは俄然色めきたちました。その意味について触れた旧い予言書を見つけるに及んで、これはなんとしても遠い西の国まで旅をせねば、あの星が導いてくれるに相違ない。
                無謀で危険きわまる旅路
その旅立ちの決意に、家族はじめまわりの人々はどんなにびっくり仰天したことでしょう。なんという無謀なことを!気でもおかしくなったんじゃないか、あの荒野と砂漠の続く遠路です。天候は不順、道中に追いはぎだけでなく、おおかみなど危険な生き物も出没します。それらにも備える旅支度などできるはずはありません。きっと老博士もいたでしょうし、旅慣れた隊商たちでもないのです。早晩、いくらも行かないうちに倒れ、砂漠に朽ち果てるに違いないのです。
★ しかし・・・それらすべてを知った上で彼らは旅立った。それはなんとしても、この人生のナゾの答えを見出したい、という強烈な思いに燃え立っていたからです。
 旅は予想通り、あるいは予想を超えて困難で、かつ難渋を極めるものでした。その中で、それまでの栄光に富んだ博士としての人生は、すっかり過去のものとなりました。彼らはほとんど何も持たない一介の旅人に過ぎなかった。ただ心中深く「この世界の救い主」に会いたい、という一念だけにつき動かされて、一歩一歩ひたすら進んでいったのです。そして彼らの旅は目的地に着くまで、奇跡的に守られたのです。
                共通点―「なんとしても」の思い
★ さて、世界で最初のクリスマスに出会った人々。それは羊飼いと博士たち、一方
は社会の最下層に、他方は最上位にいる人たちです。これでもって聖書は、キリスト誕生が、「すべての民に与えられる大きな喜び」であることを示そうとしているのでしょう。
 ただ両者にはかなり共通点があります。それは、心の中の底にあるものをじっくり見据え、なんとしても救い主(メサイア)に会いたい、との願いを強めていたこと。そしてそのために「長い苦しい旅」をしたことです。えっ、でも羊飼いはすぐ近くにいたんじゃない?そうですね。でも、彼らの日々の苦しい生活は、そのまま博士たちの砂漠の旅に匹敵するのではないでしょうか?今この時代でも、そういう旅路にいる人々は、クリスマスの喜びまで導かれつつあるのですよ(鶴岡市本町3丁目5-37日本キリスト教団荘内協会牧師)。



Posted by 矢沢牧師 at 13:04