2011年04月30日

復活祭礼拝で感じたこと

         復活祭礼拝に感じたこと
            ーまさに大輪の花が乱舞しはじめたー
さる4月24日ののイースター礼拝、すごく感動的でした。震災で落ち込んでいた日々の中に、「ぱっ」と大輪の花が思いっ切り開いたような喜びの爆発を感じました。多分庄内では桜も満開だった?でしょうが、それら全部に優って輝く力強い生命がやってきた、という感じです。こんなにすばらしい礼拝がこの日本で持たれているなんて・・・教会の将来にも期待がふくらみます。
 
 まずあの全体でちょうど1時間くらいでしたでしょうか・・冗長に流れず、きりりとしまる中でのプログラムの展開と演出。あの音楽的祭典の構成には、実に心憎いばかりのうまさと熟練が隠されてますね。無論礼拝ですから、基本的には人間的作為でどうとかできるものでないことを踏まえたうえで、やはりあの発想と吟味された内容とパワーは、図抜けて秀で、おそらく世界のどこに出しても恥ずかしくないものです。

私はこんな集会が突然現われ出たとは思いません。多分牧師先生を中心に、みんながいろいろ試行錯誤を重ねられてきたのでしょう。会衆にも若い方が多くいて、讃美の声もよく響いていましたね。司会の導き方も適切、交読文も新作ですね。時宜にふさわしいものに、との工夫ありです。

さて静寂の中で導入部の賛美歌を、あのメッセージにふさわしく独唱者が実に効果的に歌いあげてくれましたね。「白百合が囁きかける昔」
のこと、それが今大事件となってみんなの耳がつんざくばかりに展開され始めた・・ああ、とうとうイースターがやってきた、との思いがどの人の胸にも広がったことでしょう。
その後の中山さんの喜びの熱唱は、会堂全体がゆり動くほどでしたね。あれはすごかった。まさに矢澤先生が適確に紹介されたように、「喜びの天使」そのものでした。「み墓をいでて・・やみの力を破り・・」、「主イエスは死に勝ち・・」で、私は自分の悲しみに「とどめをさされた思い」でした。まさに「死にたる我をも」生き返らせられた思いです。こんな礼拝に出ると、多くの死人も復活するに違いありません。

 遅れましたが、牧師先生の説教、簡潔に、しかし悲しみのどん底にいる人を引きあげるものでした。先生はもう50年近くも、マリアとあの墓におられるとのこと。なるほど、彼女と一緒に悲しんで、すっかり「透明」になられている人格を感じましたよ。「大人のさびしさがわからないのが子どもなんだよ」と切り返されたユーモアから始まり、瓦礫の中で父母に会えたこの日の喜び、これなくして無明の闇に閉ざされる国の話、「汝の墓よ」り出よとの主の一喝、復活っを確信しないでの子育ては「悲しみの種まきをしていること」、会者定離の解決がイースターであること、どれも印象深く、こんな話は誰にでもできるものではありません。みなさんをとても羨ましく思いました。「天の力にいやし得ぬ悲しみは地にあらじ」が耳にこびりついています。感謝(S/Y)。







Posted by 矢沢牧師 at 18:27