2011年05月04日

人間は人のために役立ちたいのです!

          人間は人の役にたちたい
          利他心の活性化で閉塞社会を変えよう
                                 矢澤 俊彦
              人間の活性化をもたらす救援活動
このたびの震災被災者に対し、国内外で多くの人々のさまざまな救援活動
がとても活発に展開されています。ボランティアをする人々も意気込んでこれを行い、被災者たちもそれを深い感謝で受け止めています。「こんなひどい災害の中で、生き抜こうとしているこの人たちの勇気はたいしたものと感心した」とか、「遠くからこれほど大勢助けにきてくれるなんて・・・生きる元気が出てきます」・・などの声が連日伝えられています。
私はこの様子を見聞きしながらよく考えるのです。それは・・・私たち人間が本当に「活性化」し、強い「生きがい感」を感じるのはどういう時であろうか、(誇張して言えば)死人が生き返ったようになって生き生きと生き始めるようなことがあるとすれば、それはどんなときであろうか、こういう人間に関する興味深い問いです。

               他人に役立つときの生きがい感
今私の得ている答えを端的に言いましょう。
私たちが一番生きがいを感じるのは、なんらかの意味で、自分が他人のために「役立っていること」を感じるときで、その「有益感」が強いほど、喜びも大きいということ。逆に、自分が「役立たぬヤツ」だと思う程度に応じて、生きがい感も弱く乏しくなっていくのではないか。震災救援に駆けつけたいけれど、そのための体力もお金もエネルギーもない・・・そう思ってひそかに落ち込んでいる人々は、多分救援参加者よりはるかに多いのではないでしょうか。一方に元気の出た人がいる。しかし他方よけいみじめになっている人もいるのです。
以上のことは、考えてみると常日頃の生活でも容易に見てとれそうです。たとえば八百屋さんでも魚屋さんでも、「この間のあれ、とてもおいしかったよ」といわれると、それはよかったとうれしくなるし、お医者さんや看護士さんは、よくなって退院する患者さんを見送るとき、ああこの仕事についてよかった、と幸せな思いを味わうのではないか。多分これはどんな商売だって同じでしょう。決してお金もうけだけが目的ではないのです。

                  実に高貴で美しい人間性が
でも気づいてみると、これは大きな発見ではないか。人間は自分の幸せ
だけを追求しているように見えます。でももっと奥深いところでは他人の幸せを求めている!世界のどこかに不幸な人々がいると、自分の幸せもどこか損なわれるような気持にもなる。そこでとにかく、何かのために自分が「用いられ、役に立てられ、それを喜んでもらいたい」と、心のどこかで強く願っているとしたら・・・・・。
人間とはなんとすばらしいもの・・・崇高で高貴で、実に絶賛に値する生き物では
ありませんか。ひとことにまとめると、「人間は他者に自己を与え、自分をささげ切るとき幸せを感じる」「私たちは、自分を必要としてくれる人を必要としている」「人は実に他者への“愛”に生きるものである」と。

                でもこの殺伐たる状況はどうして
さて、これからが問題です。もし上に述べたことが正しいとするならば、大
きな疑問がわいてきます。それは・・どうして私たちの日常は、かくも“悶々”たるものであるか、自分が世の中のために役立っているかどうか確認できず、いわゆる「精神的閉塞状態」にある平成日本。多くがどこか「気力」をなくし、夢も希望もしぼませながらも、どこかで「真の活気」を懸命に求めているのでは・・・。
でも目につくのは「自己中心」であり「冷たい無関心」であり「無縁社会」の中での殺伐たる状況であり、果ては戦争です。・・・これはいったいどうしたことだろうか、という疑問です。
これは大きな問題ではないか。私たちは他者に思い切り自分をささげることで幸
せになるようにできているのに、ふだんはそれを生かし得ず、とかく逆を行っている。これは大いなる矛盾ではないでしょうか?ここら辺をよく考えてみなければならないでしょう。

                 深刻なニーズが見えない日本
私は次の3つのことをとりあえず述べて、読者の皆さんのご意見を伺いた
い、と思います。
その第1は、開発が進んだと見える現代日本。でもその日常を襲っている様々な災いや悲しみが見えにくくなっていることです。助けをひそかに求めている人々は無数にいるのに・・・不思議なほど声にならない(出さない)し、姿も見えない。ごみひとつ落ちていない道路のように。それゆえせっかくインプットされている「利他心」(利己心の反対)を発動する「相手」も「機会」も見出せないでいる。
ちょっと注意すれば、「社会的無用感」に悩み、「自分はここにいないほうがいいのでは」、と感じている人々だらけの死屍累々たる模様が見えてくるはずですが・・・。

その第2は、やはり今の日本社会の相変わらずの多忙、効率本位の生き方、経済至上主義、競争主義・・・こういうものの激しい渦の中にいることでしょう。こういう圧倒的な傾向の中で、私たちはつい自分のことだけでいっぱいになり、「役立たずは邪魔だ」というような考えになっている。そっして結局は弱肉強食の殺伐社会の構成員となってしまっている。阿鼻叫喚の巷を見て見ぬふりをして・・・これが私の観察です。

                利他心がひ弱、矛盾の中の人間
第3は賦与されている他社への思いやりや善意が「ひ弱」であること。それゆえ多少の抵抗や障害、悪意や不愉快な経験や事情の変化、相手の出方、さらに時間の経過などに負けてしまいやすいことです。そこでせっかく芽生えた隣人愛の炎も、次第にかき消されてしまうかもしれない。ああ、この人間愛がもっと強く激しいものであったなら・・・。今の社会を席巻している非人間的悪条件・・・目に見えない大津波の被災者救済に立ち上がれるでしょうに。

                 状況脱出の方法は?
以上の分析が正しいとするなら、現代の人間は本当に大きな矛盾の中で、呻吟しているのです。何かのために役立ちたい、と強く願いながら、その機会も相手も見出せないで悶々としている。職業(仕事)が与えてくれる生きがい感は不十分であるし、誰だっていつまでも働けるわけではない。さてこの状況から脱出する方法は?私なりに考えてみたのは以下のことです。
その理由の第1については、「悩む者たち、できる限り大声を出せ」といいたい。ちっぽけな誇りも、遠慮も迷惑も「サムライ精神」もかなぐり捨てて・・・。
第2は国民こぞって暮らし方を変え、幸せについての価値観を大きく変えること。「役にたつ」「焼くにたたない」とはどういうことか、よほど考えねばなりません。精神的に瀕死状態にある多数の同胞を救う道はこれしかないと思われます。
  そして第3にあげた「愛のひ弱さ」の克服が、何といっても最大の課題だと思われます。そしてこの難問解決は、結局人間の努力の及ぶところではなく、つきつめてみると、やはり力ある大宗教に期待するほかにない、と私には思われます。

                  新しい愛を充填するキリスト
  キリスト教では、この「他者への愛の衰弱」は、人間が創造者である神様の愛から離れて「一人歩き」し始めたことに起因すると考えています。そこで自力を頼る自己中心主義の修羅場が現われたのです。ただ我々の心の深みには、隣人への愛によってこそ充足するという高貴な傾向が消えずに残っていること、これが今回明らかにされつつある点です。聖書の人間理解は、この意味で「性善説」に立ちながら、「性悪説」へと誘われる現実を指摘しています。

そこで救世主キリストは、弱っている愛の力を増強して人類すべてに注ごうとしておられるのです。
 それゆえ彼のまわりに集まってきたのは、当時の社会で人間扱いされていなかった「のけ者たち」であり、「無用感」に悩む病人や障害者でありました。まさにそういう生ける屍とも見えた人たちが「有益感」に満ち、なぜか不思議な生きがい感をもって嬉々として生き始めたのです。
  以上長くなりましたが、このたびの被災者救援活動を見ながら導かれた思いを記させていただきました(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)。



Posted by 矢沢牧師 at 14:11