2012年05月04日

復活祭は妄想にあらず。

                      復活祭は妄想にあらず
                     泣くな、人は墓で朽ち行かず
                          矢沢 俊彦

   
                      人はただ朽ちゆくのか
★ 日々多くの友人がこの世を去り行く・・・またしばしば随分若き友も送らねばならないわびしさの中で、私はしきりに考える。人ははたして、やがて墓で朽ち行くほかないのであろうか?骨も砕かれ、土や水となり、人はすべて消え行く定めをどうすることもできないのであろうか?これは時として誰にも激しく襲う深い不安です。その時、やれ人は風になるだの、星になるだのと歌ったり、それで幼な子からの問いを回避したりしますが、それは何の慰めにもなりません。
★ この深刻な問いに真正面から答えようとしてきたのがイースター(復活祭)という大祭です。今年は4月8日に始まり、その後7週間、世界の多くの人々が思い続けるのは、十字架につけられたキリストが墓からよみがえったこと、そしてその命の息を吹きかけられると、生ける屍みたいだった私達も、瞬時に生き返って別人のようになり、やがて「永遠のいのち」を与えられる、そのさまは、たとえて言えば、水中のヤゴがトンボになって広い天空を自由に飛び回るようなもの、というわけです。
             
                       科学至上主義の浸透     
★ しかしこの「復活」を信じ受け入れるのは、現代人一般にはとても困難です。そんな馬鹿馬鹿しいことが、といって相手にしないし、興味関心すら持たない人が多い。
それはなぜかといえば、近代人の意識や価値観が徹底して「科学」というものに浸透されているからです。確かに「死人の復活」は科学的に証明できません。でも証明できないものは存在しないかというと、そんなことはない。たとえば、愛や憎しみや不安・・・これらがどんなに大きなエネルギーを持っているか、これは日々経験が教えてくれています。
★ そのように、復活を信じた人たちには強力な愛のエネルギーが注がれ、恐れを知らぬ勇気の人に変貌していった。自分の弱さに泣かされていたペテロという弟子も、先生と同じ十字架では相済まぬ、といって、自ら「逆さ十字架」にかけられた、などと言い伝えられています。その後も歴史で学ぶように、多くの激しい試練や迫害や殉教にうち勝つ大きな力の源が、復活による永遠の生命の希望にあったのです。
         
                     欧州文化は集団妄想の結果か?
★ ところで科学的思考をすべてと思う人々は、これらを疑惑の目でみます。キリストがよみがえったなんて・・死体を盗んでおいたのでは・・幻影を見たのでは・・に始まり、あらゆる批判と疑問を投げつけてきました。中でも、社会的精神的弱者や奴隷的人間の「願望の投影」だ、というのはその代表的なものです。言わば、復活がほしいという人たちのでっちあげた「集団妄想」の類だ、というのです。しかし・・・。
★ そんな大きな妄想があるものだろうか、と私はたとえばヨーロッパの文化を見て思うのです。多くの国のどこへ行っても、町全体が美術館だと感じるほどのスケールであるのに、あのすべては巨大なる「集団妄想」の結果なのだろうか?そういうものに、人類はかくも長くとりこにされるものでしょうか?
        
                     無数の人たちを長くはだませない
★ よく言われるように、わずかの人を長くだますことはできる。また多くの人たちを短期間夢中にさせることも可能である。たとえばあのヒトラーや他の独裁者などのように。でもこの2千年もの間、これほど多数の(今でも20数億という)人々が、虚偽と主観的思い込みの犠牲となり続けるなんてことがあるものでしょうか?もしそうなら、彼らはなんと憐れむべき可哀想な人々、生涯をうそ偽りのために全く棒に振ってしまっている精神を病む者の大群・・それが復活信者なのだろうか、と。
★ しかしそういう「みじめなる?」人々が、嬉々として、たとえば放置されていたハンセン病者などあらゆる弱者に近づき、アフリカの黒人奴隷を助け、他の様々な社会改良に手をつける一方で、あの壮麗なる美術文化の花を開かせ続けている・・・。宗教をすぐ暴力や戦争を思うのは、あまりに一面的かつ断片的印象にしか過ぎません。さてこういう卓越した復活信仰の果実を、現代の科学至上主義者はどう解釈するのでしょうか?科学ですべてを割り切ろうとする行き方こそ、憐れむべき妄想狂者かもしれないのです。
            
                       火あればこそ煙朦々たり
★ 事実は・・「火のないところに煙は立たず」。この2千年の歴史を通じて、実に朦々たる煙が立ちこめ、私達は目もあけておれないほどです。確かに猛烈な火元があるのです!その火に近づくほど、人は生き生きとした「炎の人」とされていく。これは実証的事実です。その火元の実体は証明できませんが・・・。
こうなってくると、私達もそこに近づきたくなってきませんか?あるいはいっそ「騙されて」みたくもなりませんか。もしそんな喜びの人生が本当に開けるならば、です。
            
                       愛する人とは再会できる!
★ 事実、復活という猛火に包まれた人々はみな、その「聖火」を内に燃えたぎらす別人のように変貌しました。それまではいつも死を恐れ、世間や人の眼にオドオドし、病気や災いにビクビクしてばかりいたのに・・・。「自分は愛されている」、「自分は墓に朽ち果てることはないのだ」という喜ばしい確信が強くなっていきます。      
★ 愛する者との別離は、人生最大の悲しみでしょう。愛が純粋で強ければ強いほど、悲嘆は我々をどん底につき落とします。それをどうするすべもありません。この会者定離という岩よりも固い定めを打ち破るのもイースターです。「泣くな、お前は愛する人と必ず再会できるのだ」、が新たな理(ことわり)となります。これまで流されたすべての涙は、そうしてぬぐわれるのです!
            
                       痛ましい我らの近視眼
★ ここまできて、私どもは初めて、安心して人を愛せるのではないでしょうか?子育てや保育や仕事の前提にも、「愛の永続性」の確立が必要なのです。
 これは人生最大の課題ですが、もうノンビリしてはおれません。とかく自分の身にふりかかってきてから大あわてするお互いなのですが、それでは間にあいません。それは私どもが、全く痛ましいほど「近視眼的に」生きているからでしょう。その視野狭窄が自覚されないゆえに、これほど間近かに迫ってきている大きな災いに備えようともしない。今世間では「防災対策」に大騒ぎしていますが、それよりはるかに騒がねばならないのは、百%確実に襲ってくる死に勝つ生命の探求ではないでしょうか。
            
                     愛ある天父は子を滅ぼさない      
★ でも世の人々よ、大いに安心せよ」と復活祭は呼びかけます。世界は造物主の愛で満ちています。きょう1日生きているだけでも、もうどれだけの恩恵を受けていることでしょう。私どもはわずかの空気や水滴だってつくれはしない無力そのものの生き物です。でもこうして無償で与えられている途方もなく有力な無数の恵みは、どの一人も深く「愛されている、愛される値打ちがある」ことの誤りなき証拠でなくて何でしょう。そもそもこの世界そのものが、私達の想像をはるかに超えた愛と好意の巨大エネルギーによって支えられているのです。そういう中でこそ、私達のいのちも一瞬一瞬生かされているのです。
★ 人間の親の愛も、海より深く山より高いものです。しかしそれをもう絶対といっていい、それをはるかに凌駕する強靭な好意や善意が、ひとり一人に集中して押し寄せてきているのです!
               
                      復活祭の猛火が燃えている
★ 以上を踏まえると、我が子の滅びや消滅に手を貸す親がいないように、「天の父」は哀れな地上の子らが死の力に連れ去られるままにされるはずはない。必ず善処してくださるのです。来世での新生命は風や星になるのではない。魂や霊だけがゆらめくのでもない。ほかの動物に変わるのでもない。この地上の姿や個性や意識が清められて再生させられるに違いありません。
★ イースター(墓からのよみがえり)の喜びの火は、猛火となって人々に広がっていった。死に勝った人々は、もはやこの世に恐れるものは何もなかったからです。親しい方々がどんどん去り行く中で、私は読者の皆さんに、こういう人生の可能性が開けていることをお知らせしたく、一筆させていただきました。
             
                   永遠の生命が燃えているケルン大聖堂
★ ドイツにあるケルン大聖堂は、ゴシック建築の代表として有名です。157メートルの双塔の尖塔からは、ひたすら天に向かう憧れの大合唱が聞こえてきます。驚くことに、この建築が着手されたのは1248年、竣工は1880年だというのです。この間実に632年が経過している。これはもう「永遠者」相手の大事業です。これに関わり支えた無数の人々の心中に、永遠的な生命が燃えていた。その喜びの歓声、天への叫び、遠い世代への切なる呼びかけ・・などが聞こえてきます。
 でも最後に注意してください。かように、ヨーロッパ各地の豊かな文化に、目を奪われていてはいけません。実はそれらは燃える炎から飛び散った「火の粉」のようなもの、本体から出た「派生物」に過ぎないことに気づかねばならないのです!。
★ この地にもようやく春が来たり、桜も満開になります。でもたちまちそれは散り行き、夏が来ます。この無限的循環の繰り返しに、救いはありません。天からくだり、私達を燃やしてくれる炎に触れてこそ、「永遠に爛漫たる春」を楽しむことができるのです。
(鶴岡市本町3丁目5-37 日本キリスト教団荘内教会牧師・同保育園長)

 




Posted by 矢沢牧師 at 15:01